はなひらく

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カタン。 鉢植えを倒してしまった。 プラスチックの鉢に入ったレモングラス。 最後のバイト先のすぐ側。タイ料理の店があった。 時々ランチにいったその店。 退職の日、最後のランチのつもりで寄った。 そこのタイ人のこに 「ありがとう。」と「さよなら。」を 言おうと思った。 でもそのこに先に言われてしまった。 「今日でさよなら。お店終わります。ずっとありがとう。」 そしてくれたレモングラス。 「いいにおい。あげる。料理にも使えるよ。」 あたしも辞めるんだは言えなかった。 「花は咲かない。でもずっといいにおい。」 タイのこはそう言った。 倒れた鉢を起こした。 貰ってからあまり構わなかった。たまに水を吹き掛けるくらい。 それでももしゃもしゃと情けなげな葉を伸ばして。 そして、太目の下葉はしっかり来る指を切ろうと目論み続けてて。 レモングラスはちゃんと生きてる。 陽が翳りはじめたので、片手に鉢を取って、カーテンを閉めようとしたそのとき、背後に気が付いた。 私の後ろに誰かいた。 ひとりが黙ってそこに立ってる。 ふりむいて、正直度肝が抜かれたんだけど、声が出なかった。 誰?て聞いてもなにも言わない。 なに?てきいてもなにも言わない。 「…どこからきたの?」 はじめてゆるゆるとその指が動いてカーテンの向こうを差した。 カーテンの向こう…? 改めて眺めてみる。 私のいるこの部屋は二階で、私のいるこの家は角地に建つ借家だ。 カーテンの向こう、窓の外、四辻の斜め数件先に、 窓のある部屋があった。 そうだ。はじめてここに来た頃、あそこのお家のあのお部屋、中が見えそうだな そう思ったのを思い出した。 でもそれだけですぐ忘れてた。 「あのお部屋からきたの?」 返事の代わりに座りこんじゃった。なんだ、これ…。 確かに鍵はかけてなかった。でも扉が開いた音はわからなかったな。 こちらを見もしないでなんとももそもそしてる。 私は昭和の子供だったから、みたまんまで感じれば、あやかしでももののけでもなく、これなら妖怪だな。 かなり汚れてる。長い間洗ってもらってない、て汚れかた。裸足のまま歩いてきたらしい。…爪がすごい。 薄い生地のシャツとズボン?パジャマだったのかな。でも…サイズがもう合ってないと思う。 私がすごく気になったのはその髪だった。 伸びっぱなしでぼさぼさのもさもさ。 これが、 なんでか無性に無性に、 撫でたくなったんだ。 それがなぜかは今でもわからない。 思い付いて、レモングラスをひとつハサミで摘んで、渡してみた。 すると素直に受け取って両手で握って、その香りを一生懸命嗅いでる。 その隙にそっと手を伸ばして、その頭をわしわし撫でてみた。 意外に素直に撫でられてる。 咬まないし吠えない。 怯えないし逃げもしない。 よしよし、よしよし、 私は確信する。 これは ヒトのこ。 手に当たる感触は予想通り。少しねっとりしてざらつく。鋤かないでも感じ取れる不揃いな固まり。 撫でてると気持ちはすぐ決まる。 よし。 洗ってあげよう。 その子は夢中でレモングラスを嗅いでた。
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