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当店、裾上げ無料です
春一番もとっくに吹き去り、桜の花びらは、みじんも残っていない蒸し暑い春の事。
朝から一人の女性がご来店なさいました。
「これと同じズボンが欲しいんだけど」
女性は今はいているズボンのウエストをギュッと伸ばし見せてきた。
「あっ、そんなに引っ張らなくてもわかりますから大丈夫ですよ」
平台にのったズボンを端からひっくり返しながら品定めをしていく。私はその後を追いかけるように直していく。が、追いつかない。高齢な方なのに手際は良い。
「これが良い。はいてみて良い?」
「どうぞ、試着室をお使い下さい」
女性はザッとカーテンを開けて入室するとそのままズボンを脱ぎ始めた。
カーテン閉めんのかい。
「ちょっと裾が長いから上げてくれる?」
「わかりました。腰の位置は大丈夫ですか?」
推測九十度近く曲がった腰は、本来の腰の位置がどこに当たるのか私にはわからない。
「床に着くか着かないかぐらいがいい」
「わかりました。今なら裾上げ一本なら十五分程で仕上がりますよ」
「じゃぁお願いします。前に買ったズボンが長かったからこれも裾上げしてくれる?」
「はぁ、わかりました」
二本だとお預かりで仕上げるんだが。今回は足の悪い高齢女性ともあって、待ってもらうことにした。
その待ち時間、女性は腰を下ろした。商品の入っている柔らかいダンボールの上に。
ダンボールが潰れてケツがハマってしまうやないかい。
急いで丸椅子を持ってきて座り返させた。
一先ずセーフ。
何か喋っているがミシンの音がうるさくて聞き取れない。音と音の合間に聞こえてきたのは、
「違うズボンも欲しいんだけど」
人手が足りんから裾上げ終わってからでよろしいか?
その後、再びズボンのひっくり返しのいたちごっこをした。
結局、持ち込みのズボン含めて三本の裾上げをした。勿論無料です。
その一週間後、またその女性がやってきた。
「この間のズボンね、裾がまだ長かったから少し上げてくれる?」
「じゃぁ、またはいてもらっていいですか?」
女性は前回同様、カーテン開けっぱなしで脱ぎ始めた。
だからカーテン閉めや。
二センチ程上げることにした。
「待ってるから縫っちゃってもらえますか?」
「わかりました」
荷出しで山になっていた作業台を片付けてから裾上げに入る。
振り向くと、女性が座る場所を探していた。これはいかん!
超特急で丸椅子を持ってきて座らせた。
気付かなかったら絶対にケツ、ハマってる所やん。
その日はご機嫌で帰って行きました。
夏も終わりかけのクッソ暑い日。またあの女性が徒歩でご来店なさいました。
「暑いねぇ。裾が長いから上げてもらえる?」
「はぁ、わかりました」
「やっぱり長いから、あとひと折りして」
こちら、無言で裾上げさせていただいてます。
「この夏は、ここで五本もズボン買ったのよ。凄く良くてたくさん買ったわよ。嫁さんも買っていったの」
それはそれは、ありがとうございます。一本当たり三度の裾上げは、もう勘弁していただけますか?
それから、当店の裾上げシステムは変更されました。
裾上げ初回無料。
再裾上げ三百五十円。
本日もご来店誠にありがとうございます。
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