15人が本棚に入れています
本棚に追加
ステージで歌っていた高音の伸びが魅力的に聴こえた女性。終演後、ヤスヲは彼女と話をする機会を得る。
歌っている時の妖艶な雰囲気とは打って変わり、まるい黒縁眼鏡を掛けた彼女は、とても気さくにヤスヲとの会話を楽しんでいるように映る。
彼女の名前は紺野美菜子。名取橋の高校を卒業後に上京し、大学を卒業した今もこうしてジャズの勉強をしていると言う。
名取橋…… 高校でジャズバンド…… もしかして、そのバンドのピアノは富田優司?
なんという偶然だろうか。彼女は優司が高校時代に組んでいたジャズバンド、Off Shore Dreamのボーカルだったのだ。
「悪かったよ。謝るって」
美菜子の嗚咽が治まるのを見てヤスヲが言う。
ユウちゃんに会わせてやる…… そう言った時の彼女は、あんなにも喜んでいたのに。会った途端にこんな状態になってしまうとは。
美菜子ちゃんにとって、ユウちゃんにとって、高校時代のバンドは、それほどに大切な存在であったのだろう。
「いいの、ヤスヲさん。ありがとう。こうしてユウちゃんに会わせてくれたこと、逆に感謝してます」
間接的にではあるがラジオでの優司の活躍を耳にしていた美菜子。
そんな優司が目の前で、自分のためにだったらもう一度ピアノを弾いてもいいと言ってくれている。こんなに嬉しいことはない。高校時代の思い出が蘇り、隠れていた控室で思わず感極まってしまった。
「ヤスヲさん……」
神妙な面持ちの優司が口を開く。
優司はピアノを封印していた。それはラジオの仕事に全力を注ぎ込むためである。
DJとしてデビューを果たした東鹿という街で。行きつけの店にアップライトピアノが置いてあったが誘惑には負けなかった。何度かそのピアノを弾いたことはあるが、それは頼まれて仕方なく触れたに過ぎない。
帰京して、ようやく手に入れたFMラジオの仕事も軌道に乗り始めたばかり。まだ他のことに現を抜かすなど、こうしてこの道へと導いてくれた神様と素能子様に申し訳ない。
でも……
最初のコメントを投稿しよう!