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「あの、すみません。せっかく教えてくださったのに」
彼女はもう一度だけ振り向くと
「私に謝る必要はありません。ただ、不思議に思ったんです」
「何を、ですか」
「清美さんは、一体誰なんでしょうか」
「え?」
「旦那さんの奥様。息子さんの母親。お嫁さんの義母。誰かの何か、でしか清美さんはいられないんでしょうか。清美さんは清美さんですよね」
「それは……」
この間から、いや本当はもっとずっと前から、もやもやしていたものを言語化されて、ものすごく胸に迫るものがある。それなのに清美はなぜだがセイラ先生の、そのつっけんどんな態度に苛立っていた。
私だって続けたい。自分のしたいことを自由にしたい。でも、それが思うようにできない時だってある。
「セイラ先生に何がわかるんですか」
「そうですね。私は結婚もしていないですし、母親になったこともありませんから、清美さんがどんな状況に置かれているのか、正直わかりません。けれど、私は自分自身から逃げたことはありません。自分自身からは、どこまで行っても逃げられないから、人生って吐くくらいに辛くて面白いんじゃないですか。本当は、誰かの何かになるって楽なことなんじゃないでしょうか。他の誰かのせいにできるんですから。自分自身の気持ちに、簡単に嘘をつける」
清美は、セイラ先生の言葉に顔をあげる。
「誰かの何か、じゃなくて、清美さんは清美さんですよね」
そう言ったセイラ先生の背には大きな桜の木が佇んでいる。
あと一息で花ひらきそうな予感。
先生はスタジオへ戻っていった。
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