10人が本棚に入れています
本棚に追加
「いえ、私はバレエなんか、やったこともありませんし。では、これで……」
学生時代、新体操を少しだけ習っていたがバレエなんてとても。
聞いているのか聞いていないのか、井出さんはウェアを早速いくつか持ってきている。
「大人のバレエでは、みなさん、こんな感じで着られますよ」
黒タイツにショートパンツ。そして上はTシャツ。案外、普通の格好だ。
子どもたちが「さようなら」とスタジオを出ていくのとすれ違いざま、二十代か三十代、はたまた四十代かと思われるくらいの年代の女性がぞろぞろと五、六人、「こんにちは」と挨拶をしながら更衣室へ入っていく。
「お名前は?」
まだやるとも言っていないのに、井出さんが前のめりに尋ねる。
「さ、佐藤です」
「佐藤さん。佐藤さんはもう一方いらっしゃいますので、下のお名前をお伺いしてもいいですか」
「えっと、清美です。佐藤清美」
「清美さん。素敵なお名前ですね」
清美ははっとする。今年で五十三になるが、下の名前で呼ばれたのなんか、何年ぶりだろうか。さっき、花英さんに「お義母さん」と呼ばれた時、心の内で「また増えた」と思ったのは呼び名だった。
二十三で結婚し、夫の妻として「佐藤さんのところの奥さん」、そして息子を生んでからは母親として「宏樹君のお母さん」と呼ばれずっと暮らしてきた。そしてこれからは「宏樹さんのお義母さん」になる。
会社で働いたことのない清美は、子育てに忙しくしているうちに、昔の同級生とも疎遠になり、いつしか清美を名前で呼ぶ人はいなくなっていた。
私は一体誰なのか――忘れかけていた。
「清美さん、こちらへ」
ストレッチを終えたセイラ先生が、唐突に呼びかける。
清美さん――そう呼ばれたことがなんだか嬉しかった。
最初のコメントを投稿しよう!