名もなきワルツを踊る

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「いえ、私はバレエなんか、やったこともありませんし。では、これで……」  学生時代、新体操を少しだけ習っていたがバレエなんてとても。  聞いているのか聞いていないのか、井出さんはウェアを早速いくつか持ってきている。 「大人のバレエでは、みなさん、こんな感じで着られますよ」  黒タイツにショートパンツ。そして上はTシャツ。案外、普通の格好だ。  子どもたちが「さようなら」とスタジオを出ていくのとすれ違いざま、二十代か三十代、はたまた四十代かと思われるくらいの年代の女性がぞろぞろと五、六人、「こんにちは」と挨拶をしながら更衣室へ入っていく。 「お名前は?」  まだやるとも言っていないのに、井出さんが前のめりに尋ねる。 「さ、佐藤です」 「佐藤さん。佐藤さんはもう一方(ひとかた)いらっしゃいますので、下のお名前をお伺いしてもいいですか」 「えっと、清美です。佐藤清美」 「清美さん。素敵なお名前ですね」  清美ははっとする。今年で五十三になるが、下の名前で呼ばれたのなんか、何年ぶりだろうか。さっき、花英さんに「お義母さん」と呼ばれた時、心の内で「また増えた」と思ったのは呼び名だった。  二十三で結婚し、夫の妻として「佐藤さんのところの奥さん」、そして息子を生んでからは母親として「宏樹君のお母さん」と呼ばれずっと暮らしてきた。そしてこれからは「宏樹さんのお義母さん」になる。  会社で働いたことのない清美は、子育てに忙しくしているうちに、昔の同級生とも疎遠になり、いつしか清美を名前で呼ぶ人はいなくなっていた。  私は一体誰なのか――忘れかけていた。 「清美さん、こちらへ」  ストレッチを終えたセイラ先生が、唐突に呼びかける。  清美さん――そう呼ばれたことがなんだか嬉しかった。
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