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Ⅰ
ローファーの中に足先を滑り込ませて、爪先で何度も床を叩いた。硬くて硬い、無機質な音がコツコツと響いて、家の中に空しく溶けていく。
「行ってきます」
私は玄関のドアを背に、できるだけ大きな声を響かせてみる。家の空気や壁を僅かに振動させただけで、私の声は儚く消えていく。
――当然か。
私は肩を落として、手にしたスマホを素早く操作した。画面を顔の前に向けて少しの間待っていると、真っ黒だった画面が切り替わって中年男性の顔が映し出された。
「おはよう、瑠香。そろそろ学校に行くのかな?」
「うん」
私は短く、最低限の答えを返す。仕事が忙しいのか、画面の向こうの男――父さんの顔色は、昨日の夜より少し悪く見える。
「いってらっしゃい。大丈夫だとは思うけど、気をつけてね」
「分かってるってば」
隠しきれない苛立ちが声色に出る。挨拶が済んだのになかなか通話を切ろうとはしない父さんにしびれを切らして、私のほうから通話を切った。画面が再び真っ黒に戻る直前まで、父さんは頼りなさそうにへらへらと笑っていた。
「行ってきます」
私はスマホを鞄に放り込み、小声で吐き捨ててからドアを開けた。朝の日差しが玄関を白く染め上げ、私は思わず目を細める。私を送り出す声がないまま、背後でドアが大きな音とともに閉じられた。
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