一章 灯火は幸せを包み込む

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一章 灯火は幸せを包み込む

まるでペンキで塗られてかのように、真っ赤に咲いた薔薇。 薔薇が誘う甘い香りは、蜜蜂を誘惑する。 そんな初夏の終わり頃。 時刻は正午を迎えた。 晴れ渡る青い空に白い雲。 赤レンガづくりの大きな校舎が、広大な敷地の中にそびえ立っていた。 その校舎の一角。 ゴーンゴーンと塔からお昼を告げる鐘の音が、校舎内へと響き渡る。 「あぁ、嫌だ。また、()()を思い出す」 誰にも聞こえないように、灰霞玲依(はいがすみ れい)は右眼へと当てられた医療用ガーゼへと抑える様に手を当てた。 忌々しそうに、小さくぽつりと呟く。 彼女の可愛らしい小さな口が、ムッと釣り上がる。 この鐘の音は、一瞬脳裏に彼女の蘇らせたくない映像を鮮明に映し出す。 己の耳に鬱陶しい位にこだまする鐘の音。 鳴り止まぬことは無かった。 玲依は思わず、顔を顰める。 出来るだけ。 いや、確実にこの煩わしい音を遮らせたい。 軽く舌打ちをしながら己の首にかけていたヘッドフォンをすぐさま装着した。 沈黙の世界。 まるで、己以外の時が止まってしまったと錯覚してしまう。 この静まり返った世界は彼女にとってとても心地よく、そっと瞳を閉じた。 「よかった……やっと安心出来る」 安堵感を覚える。 ふ、と一つ溜息を吐いた。 何も聞こえることの無いこの世界が、何よりも玲依にとっては安息の地。 「入学する時にヘッドフォン、買ってよかったな」 机に突っ伏しながらうんうん、と首を縦に振って頷く。 ヘッドフォンは無造作に伸ばされた彼女のボサボサの灰色の髪を、上手い具合に上から抑えている。 彼女の装着しているヘッドフォン。 これは一言で言い表すと、とても高性能である。 なんてったって、一番度装着してしまえば外の音が響くことは絶対に無い。 ガヤガヤとした鬱陶しいクラスメイトの声も、あの忌々しい正午の鐘の音も、一瞬で遮ることが出来る。 しかも、コードが絡まることは無い。 だって、ワイヤレスヘッドフォンだから。 高性能なヘッドフォン。 「流石は現代社会、作るのもが違うなぁ…」 ウットリとした口調で玲依は呟いた。 そっと、ヘッドフォンへと指先を這わせる。 買いに行った時の電気屋でも、今みたいに試しに装着をした。 この静けさに感心して玲依は電気用品店でこれを購入したのだ。 正直、試しに装着する前は性能を疑っていた。 買って後悔したらどうしよう。 そう思っていたが勇気をだしてよかったと、玲依は今では思っている。 「技術者様に感謝をしないと…コレのお陰で私は何とかなっているんだから…」 まあ、充電が切れたら話は別だけれど。 その為に、充電だけはこまめにしていた。 そんなことを考えながら、少しうとうと、としながらぼんやりと窓の外を眺める。 窓の外に見える赤レンガづくりの塔。 よく見ると結婚式場なのだろうかと、思わずツッコミを入れたくなる大きな鐘がユラユラと揺れている。 視界に入る揺れた鐘に溜息を一つ。 「見慣れてるはずなのに…ほんと、見る度に憎らしい」 思わず鐘を睨みつける。 睨みつけたってどうにもならないことは分かっていた。 分かっているけれど、睨みつけずには居られない。 この鐘の音色のせいで、玲依は思い出したくもない過去を思い出すのだから。 そう、彼女にとって正午の鐘とは、幸せの終わりを告げるものである。 何かとはまだ誰にも言えていない。 友人にすら言うことを渋っていた。 しかし、その鐘の音だけは、不幸を招く音だということを玲依は確信している。 「なんで私はこんなに………この音に囚われなければいけないんだろう…」 組んだ腕の中に顔を埋めた。 悔しくなって唇を噛み締める。 もう、このまま次の授業が始まるまで眠ってしまおうか。 そう、心の中で呟いた。 トントン、と不意に肩を叩かれる。 「誰………?」 思わず顔を上げた。 暗闇から解放された世界。 眩しい世界に思わず目を細めた。 ぼんやりとした視界の中、海のように深く青い瞳が視界に飛び込んでくる。 少女と目が合う。 彼女は、前の席の椅子へと座り、口をゆっくりとパクパクさせてこちらに笑いかけていた。 お   は   よ そう、口を動かしているのが玲依にも分かる。 聞こえない声。 まるで相手が声を失ったかのような世界に思わずふふと笑ってしまう。 「おはよう、あわいちゃん」 何も聞こえない世界で彼女の名前だけが強く脳裏に主張する。 こだまする己の声に少しだけ、楽しくなってふふ、と笑った。 そんな玲依の姿に楽しそうだねと言うように泙本(なぎもと)あわいも微笑みかける。 鐘の音が成り終わったと合図するかのように、指先を鐘へと向けた。 鐘は先程の揺れが嘘のように、生命を失ったかのように止まっている。 そっと、穏やかに微笑んだ。 「ありがとう、あわいちゃん。ヘッドフォン外すね」 そして、耳に当てていたヘッドフォンへと手をかけた。 ゆっくりとそれを離す。 その瞬間、耳へと一気に入り込む雑音たち。 賑やかな旋律は耳へとすぐさま隙間なく入り込む。 あまりのうるささに思わず顔が強ばった。 そんな彼女の姿とは裏腹に、あわいは瞳を細めて玲依を見つめている。 膝の上に乗っていた、黒いタータンチェックの布に包まれている弁当箱を、コトンと音を立てて玲依の机の上へと置いた。 「玲依さん、いつもの事ではあるけれど、今日も一緒にお弁当食べよう?未夢さんも、もう少ししたら来ると思うの」 どうかなと首を傾げて問いかける。  「もちろん、一緒に食べたいって私も思ってたところ」 是非、というように玲依はあわいを見つめて頷いた。 玲依、あわい、そして、今はまだここに来ていないがもう一人。 塔野 未夢(とうの みう)の三人は、中等部からの付き合いでとても仲が良い。 高等部に上がっても、こうしてクラスは違うが一緒にご飯を摂る事にしている。
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