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現場を終えて帰った体に、一杯の生ビール程幸せをもたらすものはないだろう。
和泉はいつもの居酒屋で一気にジョッキを半分ほど空けて、隣に座る宮城の微笑を誘った。
金曜日の午後八時と言えば、こんな大衆居酒屋は客で溢れかえっているのは当然で、それでも二人が難なく席を確保できたのは運が良かったの一言である。
「あー、生き返るー!」
「和泉ちゃん、ほんっとうまそうに飲むねえ」
「だってうまいもん。これないとオレ、死んでしまう」
「そこまで言うか?」
「言うよー。昼間干からびてるモン、オレ。のーみそもぜーんぶ」
梅雨入りしたとは思えない程の連日の晴天に、冗談抜きに脱水症状で倒れる作業員も出てくる始末である。
下請け業者の作業員には定年間近のご老体が多く、彼らには相当キツい毎日なのだ。
「たかちゃんトコも、似たり寄ったりなんじゃないの?」
「ああ、確かにね。でもあいつはあんまし現場出てないみたいだけど。ほら、試験場とか工場内の点検が多いらしいからさ、和泉みたく“炎天下”って言うより“サウナ”だな、あれは」
宮城は今でこそ親会社に出向している身ではあるが、以前は高梨のいる点検部の所属だったので、その辺りの事情は詳しい。
「うちの会社で一番キツんじゃないのか、和泉のトコが」
「ま、この時期はね」
和泉の部署からも親会社への出向といういわば栄転のようなことも可能ではあるが、しかしそれには資格が必要となる。
高倉や村田はその資格を持ちながら、人間関係の気軽さから再び工事部という末端事務所に戻ってきたという立場であるが、いかんせん和泉には資格がなく、ここにしかいられない。
ただ、何故資格を取らないのか、といわれると、“勉強、嫌い”と一言で済ませてしまう和泉にも問題がある。
とりあえず、自分には現場作業の方が向いているだろう、という気持ちがあるから、余計に勉強に身が入らないのであるが。
「で、和泉は毎年この時期から黒ザルになるんだよなー」
「サルじゃないっ!」
小柄な体でくるくると動き回る姿は“野生のサル”そのものではあるが、本人は結構気にしているらしい。
「おんなしよーな背格好してるのに、なんで瑞樹はあんなにかわいいのだろうか?」
「……んな、マジな顔してのろけないでいただけますー?」
言って和泉が残りのビールを煽った時、店のドアが開いた。
「あ、噂をすれば、たかちゃんじゃん」
入口に立っていたのは当の本人高梨と……。
「あ、和泉さんだー! らっきー」
嬉しそうな声で近寄ってきたのは埴生である。
「なんでおまえがいるんだよ?」
イヤそうな表情で和泉は言ったが、本人はまるで気にする様子もなく笑顔を讃えたまま和泉の横に陣取った。
勿論そこには別客がいたのではあるが、“ちょーっとすんませーん”などと言って無理矢理椅子を引いて押し入ったわけで。
「いやー、会社の玄関でチャリに乗ってるたかちゃん見つけてさー、どーせ帰る場所は同じなわけだし、丁度いいから一緒に飲みに行こうよって誘ったんだ」
「何が丁度いいからだよ。たかちゃんに無理矢理ついてきただけじゃねーか」
「ははははは。和泉ちゃん、和泉ちゃん、いいじゃん、たまには一緒に飲んだって」
高梨が乾いた笑いで言う。
けれど、宮城を見る目が少し怒っていて……。
「それとも何? 僕たちが来たらお邪魔だったとか?」
高梨のらしくない少しだけ冷たい声。
「ええ?」
少し冷ややかな目で恋人に見られてしまった宮城は、戸惑いながら立ち上がった。
「た……たかちゃん?」和泉もたじろいだ。
「なんだか二人っきりで盛り上がってるみたいだったけど」
二人きり、という部分を強調しながら、高梨が言う。
「瑞樹……誤解だよ、誤解。今日はたまたまおだちんが綾ちゃんとデートだって言うし、おまえはこの間から残業してるの知ってたし、一人で飲もうかと思ったら入口で和泉と会っただけだよ」
「そうそうそうそう、だから」
「和泉は黙ってて」
いつものかわいらしい顔からは想像もできないキツイ表情をして瑞樹が和泉の言葉を制した。
「前から気になってたんだけどさー。りょうさんって、和泉のこと好みでしょ?」
「え……えーっ!?」
「わかってんだよ、僕だって。和泉がかわいいの知ってるし、前からずっと思ってた」
「た、たかちゃん?」
「やめとき」
口を挟もうとした和泉を制したのは、今度は埴生だった。
そして耳元に
「放っておいた方がいい。痴話喧嘩に巻き込まれたら、こっちがバカを見るだけだから」
と囁いた。
「でも」
「大丈夫。この二人は放っといても仲直りちゃんとできるけん。ここはとりあえず、俺達店を出ましょう」
埴生は言って紙幣を数枚ジョッキの下に置き、和泉の手を引いて店を出たのであった。
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