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わかっていたことだった。いつ、そんな話を聞いてもおかしくないことは昔からわかっていた。
弘と水津穂が大恋愛の末のできちゃった結婚だったことは会社内でも有名な話であったし、彼がどれだけ奥さんのことを愛しているか、なんてそんなこと愛人である自分にさえも堂々と言い切ってしまうくらいのもので。
だから、傷付くつもりなんてなかった。
あんな話を聞いたところで、彼に向かってはっきりと「おめでとう」と言えるだけの余裕は持っているつもりだった。
だから、こんなにショックを受けてしまっている自分が信じられないのだ。
これは……たぶん、違うのだ。彼の妻が妊娠した、という事実にショックを受けているのではなく、ただその事実を自分に対して言ってくれなかったこと。
遠回りでしか聞けなかったこと。
家族以外では彼の一番近くにいると信じていた自分が、それを知らされていなかったという事実に、裏切られたと感じているから、だからこんなに苦しいのだ。
和泉は誰もいなくなった事務所の中で、茫然とパソコンの画面を見つめていた。
高倉が何を考えているのかがわからない。
それはいつも思っていたことだ。
どれだけ彼女を、そして息子を愛しているかを語った後で、真剣な眼差しのまま和泉にも「愛している」と告げる神経の太さ。
社内ではあちこちで女の子に愛嬌を振りまくくせに、決して本気にさせず、また本気にしない手際の良さ。
資格があるだけでなく、その経験値さえも恐らく課長クラスであるというのに、この事務所の中で自ら進んで平社員で居続ける物好きさ加減。
彼に関する総ての事は、きっと誰にも理解されないし、また本人もされたいと思っていないだろう。
だから、和泉にはわからない。
わかりたくも、ない。
けれど自分はショックを受けているのだ。
彼がわからなくて、彼をわかりたかったのに、わからせてもらえなくて。
誰もいない事務所内にはエアコンの音だけが響いていて、まるで自分が空洞の中にいるような気持ちになる。
と、その時和泉のスマホに着信があった。
それは高倉のナンバー。そして、一瞬だけで切れるコール。
無言のそれはいつもの合図。
高倉はきっと何も知らないのだ。和泉が知ってしまったことを。
和泉はふっと嗤った。
……否、それは関係ない。
恐らく高倉は、和泉がそれを知っていても尚、平然とコールするだろう。
それとこれとは違うのだから、と。
水津穂への気持ちと和泉への気持ちは違うのだから、と。
高倉の高倉たる所以なのかもしれない。
和泉の気持ちを弄ぶのではなく、ただ彼の本心がそうなのだ。
水津穂への愛も、和泉への愛も、それぞれ別物として彼の中では同等に大きなものなのだ。
けれどそれは、何も知らない水津穂なら普通に受け止められるだろうが、知っている自分にとってはどれほどの苦痛かわからないのだろう。
水津穂の存在を知らないでいられたら、それでもいいのかもしれない。
けれど自分はそれを知っている。
いや、知っていることを前提でこの関係がはじまったのだからそれをとやかく言うことはできないかもしれない。
けれど、知っている自分の苦痛を一体どこにぶつければいいというのだ?
和泉は自分でも泣いているのか嗤っているのかわからないままスマホを見つめた。
ただ、着信を知らせるメッセージを、ひたすら見つめ続けた。
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