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埴生が「話がある」と高倉を呼び出したのは、和泉が二日酔いのために有給休暇をとった日の翌日であった。
勿論和泉自身はその日も早朝出勤の超過勤務で、高倉とも埴生とも顔を合わせていないのであるが。
「話…って、何かな?」
初めて見る高倉の、噂に違わぬ容貌に一瞬ひるんだものの、自分を見る優しい目つきに肩の力を抜いた。
「和泉のことです」
言われなくてもわかっているくせに、と思いながらも一応答えて。
とにかく社内の連中と出会う可能性が少しでもあるような場所は避けよう、という埴生の考えに高倉も賛成して、何故か高倉の車に乗って郊外に出、鄙びた喫茶店に入った二人である。
確かに誰も客はいないし、店員といっても地元の耳の遠いお婆さん一人だけという店ではあるが、だからこそ埴生はかなり緊張していた。
「……和泉から、どこまで聞いた?」
高倉の言葉には緊張感も、怒りも、何も含まれていない。
埴生としては気が抜けるくらいのほほんとした口調で尋ねられ、
「あまり……つーか、全然、詳しいことは聞いていません」
素直に答えた。
実際はっきりとした内容など全く知らないし、ただ二人が付き合っていること、そして高倉の妻の妊娠という事実で和泉が傷付いていること、その二点だけがはっきりとわかっていることだ。
「そう……じゃあ、俺が和泉にフられたって話は?」
「え……?」
「最新情報って、ヤツだな」
驚く埴生をよそに、あっさりとそう言ってのけた高倉は、平然と目の前にあるコーヒーを飲んだ。
「おとといだよ、それも。てっきりキミのせいだと思ってたんだけどね、俺がフられたのは」
「んなわけ、ないじゃないですか」
「直截はね、違うけどさ。でも……キミの存在ってのもあると思うよ?」
「そんな……俺のせいにしないで下さいよ」
「いや、別に悪い意味じゃないし。責めてるつもりなんてないんだけどね」
埴生がムッとしているのにも拘わらず、高倉はそんなことをのらりくらりと言ってのける。
「俺達はいずれは別れなければいけなかった。でも……俺も、あいつもお互いにハマってしまってて、なかなか抜けるに抜けない状況になってしまってたわけだ。そこに、キミっていう石の登場。和泉にとっても、たぶん俺にとっても、キミの存在は大きかったんだよ」
高倉はそう言って、埴生の目を優しく見つめた。
「だから、感謝している」
わからない。
この人が何を言おうとしているのか。
だいたい、出鼻からして挫かれてしまったのだ。
はっきりと「和泉と別れて下さい」と言いたかったのに、聞いてみれば既にこの人は和泉にフられた後で。
和泉とつきあっていることも、知られていることにもっと驚くかと思っていたのに、こんなにもあっさりとしていて。
「和泉にはね、俺はいてはいけない存在なんだよ」
高倉は戸惑う埴生を気にも止めないまま、話を続けた。
「和泉は俺に惚れてたし、俺も和泉のことは大事だったよ。実際キミが和泉に言い寄っているって噂聞いて、かなりムカついたしね」
笑いながら言う高倉を、茫然と見つめながら思う。
和泉がこの人に惚れた理由。
それは、この人のこの空気なのだろう、と。
緊張感のない喋り方も、初対面だというのに――しかも年上だというのに――それを感じさせない雰囲気の柔らかさも、総てこの人独特のものだ。
この人を前にすると、「構える」ということができなくなってしまう。
肩の力が自然に抜けるような、そんな感覚。
しかもそれを本人は自覚していないのだろう。
「でもね。俺達はお互いに何も生み出さないし、どこにも進めない。そんな関係はね、俺はともかくとして、和泉にとってはマイナスでしかないんだよ」
高倉がカップを置いた。
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