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かしゃん、という小さな音が、静かに流れるBGMに重なる。
「和泉には未来がある。まあ、俺にもそれなりに、ね。で、その未来はさ、俺といたら完全に閉ざされてしまうんだよ」
「男同士、だから?」
「いや、不倫だから、でしょ?」
にっこり、と笑いながら訂正する。
「俺、さー。和泉のことも愛してるけど、やっぱり奥さんのこと愛してるんだよねー。もう、これってどうしようもないの。俺と水津穂は出逢うべくして出逢ったし、もう絶対別れるなんてこと考えられないしさ。まさしく運命の人ってヤツなんだよ、お互いに」
それを、この状況で言うか、普通?
埴生は呆れ返りながらも黙って高倉の言葉が続くのを聞いた。
「だからさ、和泉のことは本当にかわいそうだと思うけど、どうしても選べない。最終的に選ぶのは絶対、水津穂なんだよ。でも……それを一番知ってたのは、たぶん和泉、なんだよね」
「そんな……」
「そうなんだよ。和泉は、ちゃんとわかってた。自分がどうなるか。でも、別れられなかった。自分が俺といたいから、だし、俺が和泉といたかったから」
はっきりと言い切る。
それだけ……煮詰まっていたのかもしれない。
「そういうことをね、全部知っていながら一緒にいると、どうなると思う?」
「え……?」
急に訊かれて戸惑う。
「もうね、大切だって思うことしかできなくなるんだよ」
高倉の表情は本当に切なげで、だから痛いほどにわかる。
この人がこの場限りの言葉でそんな台詞を言っているのではないことが。
埴生は冷め切ってしまっているコーヒーに手を伸ばし、一口だけ飲んだ。
この人が本当に和泉のことを好きだったこと、和泉が本当にこの人のことを好きだったこと。
結局お互いのその気持ちが報われないものだとわかっていながら、それでもお互いに「相手を大切にする」ことができたということは、尊敬に値することだと埴生は思った。
「和泉はね、いい子だよ。素直だし、純粋だし。本当の意味で、育ちがいいって言うんだろうね、きっと」
不倫、なんて関係の絶対に似合わない。
そんな言葉が、言われなくても伝わってきた。
「キミが和泉をどう想っているか俺は知らないし、別に知りたいとは思わない。でも、本当に大切にできる自信があるなら、あの子を幸せにしてあげて欲しい」
真剣な声で、埴生の目を見つめてそんな風に言う。
高倉の気持ちがわかった今、自分もまた同じく真剣な気持ちで彼に答えたい。
だから、しっかりと頷いた。
「……なんて、ね。俺がそんなこと頼める立場じゃないんだけどね」
故意に軽い口調に変えたのは、恐らく自分を気遣ってのことだろう。
そう受け取った埴生は少しだけ微笑んだ。
「あ、そうだ。ちなみに俺、来月頭から本社に異動になるから」
「へ? なんで?」
七月一日から、の異動は確かにこの会社ではよくある大異動のパターンではあるが。
「工事部だと嫁さんの出産に立ち会えない可能性高いんだよ。いつ呼び出しあるかわからないからね。だから、所長に異動願い出した」
どの部も喉から手が出る程に欲しい人材である。
おそらく一も二もなく受理されたに違いない。
高倉の噂をしっかり耳にしている埴生はそう思って内心ため息を吐いた。
しかも本人もそれを知っているのだろう。
和泉と別れて僅か三日で本社異動が決まっているはずがないだろうのに、こうしてはっきり断言してしまえるのだから。
まさか、和泉と別れる前から「異動」なんて考えているはずもないだろうし。
ものすごい自信と、それに見合うだけの実力。
この人と知り合う人間誰もが虜になる存在であることがよくわかる。
全く敵にしたくない人物だ。
「んじゃ、あんまし遅くなるとアレだし、そろそろ帰ろうね」
高倉が高倉らしくのほほんとそんなことを言って、二人はようやく話を切り上げたのだった。
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