抱擁

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「和泉ちゃーん、紙が出ないー!」  と叫んだのは福島主任。  先ほどからプリンターの前に立って、あーでもない、こーでもないとぶつくさ言っていたのだが、ついにキれたらしい。 「何やったんスか?」 「何もやってねーよ」  報告書記入を中断し、和泉は所内に一台しかないボロプリンターの側に行く。  社内でもあまり待遇のよろしくないこの事務所には、たいていのOA機器がどこかの事務所のお下がりとしてやってくる。  なので、普通に使っていてもエラー発生は日常茶飯事なのである。 「っかしーなー。やっぱダメ。オレにもわっかんねー」  プリンターの設定を調べてはみたものの、そこは和泉とて素人である。  結局最後に頼るのはプロの手しかなく、早々に諦めて隣の本館にある開発部を訪ねることにした。  渡り廊下を隔てたそこは、完全に雰囲気の違う別世界である。  かたやプレハブに近い作りの事務所であり、こちらは中堅企業の一フロアである。  勿論中で勤務する人間の雰囲気も全く違うので、和泉はそおっと同期である藤田に近づくと、 「すみません。プリンターの調子おかしいんで、ちょっと見てもらいたいんですけど」  こそこそっと、お願いする。  誰だって慣れない余所の部長なんて怖いと思うものであり、和泉もだからこそ、そんな風に目立たないように頼んだのであるが……。 「おう、和泉ちゃんじゃん。久しぶりだなー、おまえ元気してんのかよ?」  藤田は何の躊躇いもなく普通の声で言ってくれ、その声に反応した他の社員たちの視線も見事に和泉に集まってしまう。 「うー……うん。ごめん、邪魔して」 「どうした? プリンターって、例のあれか? しょーがねーなー、そろそろ新しいの入れてもらわないと、いつ壊れても不思議じゃないぞ、あいつは」  だーかーらー。  もちょっと、小さい声で喋ってくんないかなー、藤田さん。  和泉は他の社員の手前小さくなって俯く。  どうも地声がやたらと大きい藤田は、その事実に全く気が付いていないようである。 「藤田さん、藤田さん。困ってますよ、彼。俺、行ってみましょうか?」  何事かと視線を投げかけてくる社員の中、助け船を出してくれた男がいた。 「そうだな、ちょっと俺今外せないし、頼むよ、埴生(はにゅう)ちゃん」  誰、誰? と和泉が藤田の服を引く。 「ああ、こないだから入ってるバイト。埴生ってんだ。機械に関しちゃ結構詳しいヤツだからさ、コイツに任せるわ。よろしくな、和泉」  ぽん、と肩を叩かれ、和泉は頷いて埴生を見た。  にっこり笑っているけれど、身長は恐らく百九十を越えているだろう長身に、七十そこそこの和泉は圧倒されてしまう。 「埴生司(はにゅうつかさ)、です。……っちゅーか、とりあえず、行きましょうか」  言われて気づく、呆然としている場合ではないことに。  社員の目はもう仕事に戻ってはいるものの、このままここで立ち尽くしていられる程、いい雰囲気ではないことは確かである。  和泉は埴生に先立って事務所へと戻った。 「ああ、設定がワヤ」  埴生はパソコン本体を暫くいじった後、そう呟いた。 「誰っすかー、こいつの設定やったの?」 「俺だよ、文句あんのか?」  口出ししたのは、村田である。  事務所には、最近和泉と組んでの現場作業が多い村田と、当事者の福島主任しかいなかった。  他は皆現場作業に出ているのだ。 「しょーがねーだろー、開発の連中忙しい、忙しいつって全然やってくんないんだからさー」 「購入した業者は?」 「購入なんかしてねーよ。そいつは昔企画部が使ってたヤツのお下がりさ」  本社の扱いの不当さにいつも不満をこぼしている村田はそう言って自分の仕事に戻っていった。 「そりゃ、お気の毒に。……しょーがないな、俺、やっときますよ」  埴生は言って、和泉が茫然と見守る中プリンターの接続設定を一からやり直し、数分後には唸り声を上げてプリンターが数枚の用紙を吐き出していたのだった。 「おお、さっすが」  福島に感心したように言われ、埴生は少しはにかんだように笑った。  そして、一連の作業を呆然と見ていた和泉に向かい、 「設定はたぶん大丈夫でしょうけど、どーもコイツ素直じゃないみたいだから、ひょっとしたらまた拗ねるかもしれん。ま、そん時は俺、指名してくれていいっスよ。藤田さん忙しそうだし」  と言って内線番号を伝えてくれた。 「あ、いや。ここから内線、だめなんだよ。うちの事務所、繋がってないんだ」  どうも社内での継子状態なこの事務所、外線はどこの部署も違うとはいえ、内線を繋ぐくらいはして欲しいものなのだが、それすら完全に排除してくれているのである。 「そう、ですか。じゃ、俺の携帯教えときます」 「え?」 「だから、お返しに、ライン交換してくれませんか?」 「は?」 「はい、これ俺の名刺」  用意周到、裏にはきっちり携帯番号が記入されている。 「お、社内で堂々ナンパするとは、いい度胸してんじゃねーか、新入りさんよ」  自分の席から様子を伺っていた村田が口を挟み、ようやく和泉は埴生がしていることの意味を知る。 「いけませんか?」 「いけませんよ。だって、いーずみちゃんはうちの事務所のかわいいかわいいマスコットだからねー。そう簡単に手を出されては、黙っていられません」 「む、村田さんっ。何ですか、それー」 「まあねえ、和泉ちゃんに目を付けるあたり、タダ者じゃないとは思うけど」  笑いながら主任までもが言ってくれる。 「福島さんまで……オレって一体……」 「まあまあ、新入りくん。和泉ちゃんに声をかける気持ちはわからんでもないが、道を踏み外す前に忠告しといてあげよう。こいつはオトコだ。こーんなにかわいくても、立派なモノがちゃーんと付いてんだよ」  村田が和泉のムスコを指さしながら言う。 「むーらーたーさーん!!」 「そんなこと、見ればわかりますよ。でも、俺気に入ったんスよ、和泉さんのこと」 「ほほー」 「とゆーわけで、はい、名刺。和泉さんのは又今度もらいにきます。だから、気が向いたら電話下さい」  村田が感心している隙に、呆然としている和泉の手に自分の名刺を押しつけ、埴生はその巨体をのんびりと本館の方へと向けて出ていったのであった。
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