三、御原高校水泳部

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「冷たっ!」  入れた足を瞬時にあげて、またゆっくりと水に入れてみる。つま先をつけただけで全身に鳥肌が立つ。  四月の屋外プールに入ったのは未だかつてなかったが、これはプールというより氷の張った湖だ。氷なんてどこにも張っていないが、それぐらい寒かった。  震える駿とは打って変わり、亮太はすでに先輩たちと打ち解けて楽しそうに泳いでいる。その姿を見ていると余計に腹立たしい。少しは巻き込んだことを申し訳なく思えよ。 「おい」とプールの中から呼ばれる。先ほど水着を貸してくれた二年生の和也だ。 「少しずつ入るけん寒いんよ。思い切って頭まで使って泳いだ方があったまるぞ」  そうは言われてもなかなか入る勇気が出ない。しかし、水着姿で夕風を浴びるのも身が縮んでいく。  どうしようかと悩んでいた時、不意に体が前に傾く。指ではじくようにポンッと軽い感じで誰かから背中を押された。必死にもがいたが落ちていく体が止まるわけもなく、駿は不格好な姿で冷水に落下した。体の周りで気泡が泡立つ中すぐにここがプールということに気づいて立つ。 「ぷはあ」と顔を水面から出して見上げると、清原がくつくつ笑いながらスタート台に座っていた。 「いきなり何するんですか」 「だってちゅん君、自分じゃ入れなさそうやったけん。でも、そろそろ泳いでおかんともうリレーまで十五分もないしね」  それにしたって突き落とすことはないじゃないかと口をすぼめる。しかも「ちゅん君」という呼び方は勘弁してほしい。先ほどの屈辱の自己紹介が思いだされる。 「デジャヴを見ているようっすね」と隣でゴーグルを外した和也が苦笑する。 「和也君は懐かしいでしょ?」 「マジであの時は心臓凍結したと思いましたもん」 「それは大げさ」  上にいる清原は白い歯を覗かせている。デジャヴってことは和也も去年されたのか。そう思うと和也に親近感を覚えるのと同時に、同じことを二年連続でして笑っている清原が悪魔に見えてきた。 「なあ、ちゅんは二十五メートルは泳げるの?」 「駿です」と訂正しても和也は「あだ名はあった方がいい」とそのままちゅんを押し通す。 「今年は一年多いけんな。あだ名は武器になる。それよりどうなん?」 「一応、泳げると思います」と言ったものの自信はなかった。通っていたスイミングも中学に上がってからは週一でしか行かなくなり、中三の時には幽霊会員だった。つまり、ちゃんと泳ぐのは約一年ぶり。考えると足がすくんでしまう。  駿の横にいた和也はゴーグルをつけなおして微笑した。 「じゃあ俺よりもスタートラインは先やな」  そう言ってふわりと上体を上げた和也は水の中へ消えていく。 どういうことなんだろう。和也の言葉を考えていると上から清原のマイクのように大きい声が反響する。 「あとじゅっぷーん!」  俺も立っているだけではいられない。駿は人の流れの邪魔にならないタイミングで水中にもぐって壁を思いきり蹴る。冷たい液体が体に沿って後ろへ流れていく。相変わらず震えるほど冷たいが進んでいる感覚が気持ちいい。  そのままけのびで伸ばした右手を体に引き寄せようと思ったところで誰かに足を触られた。すぐにその場で立ち上がり、後ろを見ると少し顔を上げて「すまん」と手を挙げている先輩がいた。 「すみません」と頭を下げると、先輩はすうっと駿を綺麗に交わして泳いでいく。それからも足を触られては立ち止り、空間が開いた時を見計らって少しだけ泳ぐということを繰り返していた。  立ち止っている間、ものすごく恥ずかしかった。これだけ頻繁に立っているは自分だけで周りに迷惑をかけていること、この中で一番劣っていることが恥ずかしく、情けなかった。  少しは泳げると高を括っていたが、実際泳いでみると体は思うように動かないし、すぐに呼吸が荒くなり肺が潰れそうになる。時間が過ぎていくたびに不安が募っていく。  結局アップが終わるまで駿の鳥肌が無くなることはなかった。
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