7人が本棚に入れています
本棚に追加
まだ若く細かったこの楢の木に、男が斧を突き立てた時——全ては始まった。
まるで鋼の様に硬かった。斧を持っていた両手が痺れ、そのまま思わず取り落とした。木の幹には、薄らと切れ込みが入っただけで、切り倒すなど、到底無理だと思われた。
男が斧を拾おうと、ふと視線を落とすと、先ほどまではそこになかったモノが視界に入った。
女だった。木の根元に蹲り、帯の上から腰を押さえている。額からは脂汗を流し、赤い唇からは小刻みに息を吐いている。
どうしたんだ。男が駆け寄ると、女は縋るように見上げ、男の着物の袖を掴んだ。
お願いします。この木を切らないで……。女が抑えている腰元が、じわりじわりと赤く染まり、桃色の着物も倣うように色を変えていく。真白な指の隙間からは、赤い雫が垂れては落ちる。
男は女の手に自分のそれを重ね、木の幹に付けた細い筋を見た。同じだった。赤い雫が、つ、つ、と垂れていた。
すまないことをした。あの木は切らない。君の傷はどうすれば治るだろうか。男が問うと、女は軽やかに微笑み、切らないで下されば、それで良いのです。そう言った。
苦痛から顔を歪める女に、男はいつまでも、いつまでも寄り添い続けた。額の汗を拭い、傷口に手拭いを当てた。女は男の肩にもたれ、こんなに幸せなことはないと、微笑んでいた。
やがて夜になり、満月がゆっくりと夜を横断し、朝が来た。いつの間に眠ったのか、男が目を覚ますと、女の姿はそこには無く、まだうら若い楢の木が、静かに男を見下ろしていた。
男は幾度も幾度も、その場所へ行った。ただただ、会いたかった。もう一度。いや、一目だけでも良い。元気で暮らしているのか……。そのことが、気になった。
月齢がひと回りしたある日。男が楢の木の根元に座り、女を待っている時——沈丁花の花がひとつ、ふたつと開き始め、辺りはなんとも良い香りに包まれた。男は、香りを吸い込み、それを堪能する様に目を閉じた。
あぁ、傍にいる。いや、ずっと、傍にいてくれたのだ。その時、初めて気が付いた。
最初のコメントを投稿しよう!