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メイコは伝票を持って去っていく。ふだんの食費は出しているけど、ハナは金銭面では何もしていない。正式に推薦されれば、作家とアート関係者のみのプレオープニングに作家の招待者としてメイコも参加できる。ヴィヴィにはその時に会えるだろうし、バレたら自分がメイコを騙したことにして全部引き受けるつもりだった。メイコの築いてきたキャリアが、こんな遊びみたいなことで傷ついて欲しくないとハナは感じていた。
グレープフルーツジュースを飲み終えたハナは、エスカレーターに乗って八階の展示場に向かう。デパートは華やかに商品が並んでいて、エスカレーターで各階を眺めながら上がるのがハナは好きだった。
月曜の午前中のせいか、会場に人は少ない。具体的な人物がカラフルに描かれているもの、色と線だけの抽象的な絵など、飾られている作品はさまざまだ。案内を見ると、これからくる次世代アーティスト十二人の展示と紹介されていた。ハナ以外のお客さんは女性の二人組。それと、大きなスケッチブックを右手に抱えた男の子だった。
毛糸の帽子をかぶった男の子は、ヴィヴィの大型作品の前に立って作品をじっと見ている。ハナが一通り作品を見終わった時も、まだ同じ体勢で作品の前に立っていた。彼が作品の目の前に立っているために、ヴィヴィの作品は遠目にしか見ることができない。彼の後ろをうろついていたら、男の子はいきなり振り返って「すみません!」と言った。
「僕がここで見てたから、作品よく見えなかったですよね。すみません、どうぞ」
「あ、はい、ありがとうございます」
男の子は後ろに下がって場所を空けるが、立ち去る様子はない。ハナが去ったら、また作品を見るつもりでいるんだろう。目の大きな幼さの残る顔は、メイコが好きそうな感じだとハナは思った。
「この作家さん、好きなんですか?」
「はい、すごくかっこいいなって憧れています。天の星みたい。僕は地面を這いまわるような生き方しかできないから」
ファンからするとそんな風に見えるものなのか。メイコがヴィヴィをよく星に例えていたことをハナは思い出す。空に星があるってだけで生きる力が湧いてくるとか。
「あなたも絵を描くんですか?」
ハナは少年の持っている大型のスケッチブックを指さす。子どもみたいに大きな文字で名前が書かれていた。岩神地生。岩に神の神、地面を生きる。変わった名前だが、なんて読むのだろう。
「ちょっとだけ。でも全然うまくないです」
「そっか、でも絵を描いてるなんて、それだけですごいな。私には何もないもの」
「僕も、何もないです。人の真似してるだけ」
俯きながらつくる笑顔がかわいらしい。
「まだ若いんだからさ。どんな人生だって選べるんじゃない? うらやましいよ、その若さが」
ハナが大げさに嘆いて見せると、少年は顔を上げ、小さく声を出して笑った。
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