トラ・ウマ1

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トラ・ウマ1

「二階堂、起立!」  こいつらは全員ゲラ(ツボが浅い人)なんだろうか。僕がその声を聴き、思わず立つと見越したように笑い始めた。  わらうな!と、僕は叫びたかったが、天性の、いや後天性なんだろう性格が災いし、顔をじっと赤らめたまま、着席した。  二階堂、これは僕の本名ではない。また、偽名でもない。これは父方の祖父の旧姓である。父は良家の娘と結婚したために、婿養子となったのだ。父は池上という主に海外に向けての輸入品を卸す由緒あるお家のお嬢さんと婚約し、今は精神病連に突っ込まれ放置されている憐れな人である。そして、その第一息子として生まれ、立派に育て上げられた池上充(みつ)、それが僕である。しかし、そんなことはいざ知らず、クラス内での僕の評判は甚だしことこの上ない。  僕が顔を赤らめ沈黙しているのを二やついた目、もしくは若干の遠慮を持って眺めている者が数名。後は、神に触るな、たたられるとまるきり無視し各々楽し気に話し込む者が大半。そして憐憫という同情めいた視線を投げかける者が少なからずいるが、そういった面々は逆に触れてこようとも思わない。薄情な奴らだ、僕は下唇を甘く噛んで、恥を忍び顔を俯かせ、目を閉じた。  今は5月。その第一周目にしてこの扱いは正直よろしくないだろう。それは僕もひしひし感じている。入学式から今に至るまでの短期間でもうここまでなめられたのはもはや奇跡といって憚れない。  入学式、できるならそこまで戻りたいものだ。たった一度でいいのでその日に戻ってしまいたい。僕はその初日に大馬鹿をしてしまいこれほどの仕打ちを甘んじて受けなくてはならなくなったのだ。僕は机に付けた正の字を眺めていると、ぼんやりと胸の内に自業自得という四字熟語が浮かんだ。まさしくその通り。正の字は父が良く壁に刻んていたものである。それを眺めていると僕は真理が見える気がしていたのだ。  2限目が始まり、ドヤドヤと落胆の声を上げつつ、席に着く。最後まで席に着くのを渋ったのはヨナカと呼ばれる女だ。ヨナカは明るいがドジで人にはぁ?と言わせるのが異常にうまい女である。今も指折り数えていたのに先生が邪魔してわからんくなった!と訳の分からない抗議を繰り返している。そしてそれを囃し立て、授業をうまいこと短くさせようと声を荒げる連中。これは故意の席替えにより後ろの席を占拠した豊永組だろう。僕を辱めるのもこの連中、そして首謀者は豊永寛(ひろ)なのだ。こいつはとにかく小憎らしい男で、僕は大嫌いである。窓から身を乗り出したときなどそのまま落ちてくれと願い込めたくらいに。  先生はヨナカの抗議に面倒気に首を振り、黒板に開いてほしい教科書のページを書きだした。カツカツとチョークの音が響き、僕はそれに従い23ページを開いた。  豊田組の方でペチャクチャと授業に何ら関係のない話が飛び交い、漸く着席したヨナカが遠くから相槌を打っている。うそ!、まじ!とか、なんにせようるさい。先生の声も段々と大きくなっていく。僕は、教科書の隅の方に正という字を書いていた。  先生が席順で生徒を当てだし、僕は池上、なので早めに当たった。数行程度だが、音読をすることになり、少し息を吐き出した。  「せんせー、そいつは池上じゃないっすよ。二階堂って言うんですよ」  誰か知らんが、豊永の隣の席の子分が言った。先生は感心なさげにはぁそうですかと片眉を上げた。別に僕がどんな姓だろうがどうだっていいという表情だ。なんでもいいから早く音読してほしいらしい。  あぁ、音読するさ、してやるとも。  「夢は一時的なことであり、それは普遍的な回路を通り抜けるモノである。文脈に沿っていようともいなかろうとも、それからの関連する事柄をデジャヴュという。デジャヴュに共通するのはそれが人に感じさせる既存の在り方を想像させ、写実主義の論点をすり替えさせる心理描写の絵画的主張である。その最もたる重要部分は著しい感情の側面を考慮すると、それはトラ・ウマと言っても過言ではない。第一にこれは…」  「はい、もうよろしいです。池上さん、座りなさい」  慌てた様子はないが、どうやら次に読むところまでさらさらと流してしまっていたらしい。なら、もっと早く止めてくれと息は少しずつ浅くなってゆく。振り返らずとも、豊永たちはニヤニヤしている。あのにやけ面を見ると身震いがし、激しい嫌悪に襲われる。父はにやけ面とは程遠い厳格な人だったが、僕がほんの少し失敗をすると程度は関係なく、サド的一面を覗かせた。そして今もその恐れに身を震わせるしかない、僕のこの症状を、簡単に言うならば。  そして僕のすぐ後ろである宇田さんが立ち上がり、生粋の美声で僕の失敗部分から音読を開始した。 「その最もたる重要部分は著しい感情の側面を考量すると、それはトラ・ウマと言っても過言ではない。第一にこれは、過去に何かしらの起因があった時に現れる。この主な要因は幼少期の未熟な精神面に過度な関与を及ぼしたことであり、これは一般的に過去に捕らわれた状態である。この物理的解決方法は薬剤に頼るほかないので、精神的な解決方法が妥当だろう。」  宇田さんのすぐ後ろの遠藤が立ち上がる。僕は精神的な解決方法の部分にシャーペンでアンダーラインを引いた。  
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