トラ・ウマ②

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トラ・ウマ②

 父は今は薄暗い忘れ去られた田舎の廃墟同然の精神院に放り込まれているが、それが発見される前はまったく正常者だった。  と、いうのは大嘘で、父は養子と迎えられた先の環境があまりに整っていたせいか、トイレがぼっとんじゃなかったからか、それとも嫌がらせでも受けていたのか、どうやら精神はもともと良い状態ではなかった。母の義母に当たる人が関係していると睨んでいるが、まぁ犯人捜しはどうだっていい。  父は自分の軟弱な精神に言い訳したかったのだ。若しくは、神様、僕は悪いことをしましたと牧師様に告白したかったのだ。ならカトリック教にでも入ればよかったのに、宗教に縋るのは精神が軟弱だと誰にも訴えかけなかった。そう思っている時点で軟弱だろう。そして信仰対象は自分として、父は何ともおぞましいことに、唯一の一人息子で、後継ぎになる可能性も非常に高いこの僕を信者に仕立て上げようとしたのだ。父の、努力宗教は今思い返せば随分痛ましいが、当時の僕にとって恐怖でしかなかった。父は努力を信じ、一歩一歩進んでいった。有名な国立校に行き、将来はいずれ起こるかもしれない世の恐ろしき出来事から皆を守る職業に就こうと、必死で努力した。中国に蛍雪の功という言葉があるが、父はその通り、同年代がラジオに大ハマりしている間も一人暗い自室で、虫の音と共に勉学に勤しんだ。  しかし、祖父からは見放されたも同然の扱いを受け、養子に迎えられた理由も、容姿が整っていて娘のハートを射抜いたからという努力が及ばない(逆に言えば非常にラッキー)ことで見初められたからだ。養子に容姿が整っていて迎えられる。センスのいい駄洒落だ、笑える。  父は二階堂という父よりも厳格で凝り固まったクソあほの配下に僕より何十年もいたんだから、仕方ないとも言えないが、どうやら復讐的観念を誰にも明かさず大事に隠し持っていたようだ。僕を養子先の名でなく、二階堂と呼んだ。二階堂と呼んだ。  その声は3km先に居ても聞こえるくらいのボリュームで、喉も張り裂けんばかりだった。僕と父は本家の離れのクソ田舎で何年か過ごした。何年か思い出せない。思い出せるのは父の声と、竹刀だ。二階堂起立!!から始まり、二階堂何々と僕に命令した。軍隊みたいに規律を整えることを効果付けようとしたんだろうか。いや、違う!あれはただの自己満足だった。努力だと?二階堂、努力、二階堂、黙れ!、二階堂!二階堂!二階堂!  僕は二階堂という声を聞くともう自分でも異常だと理解しているのに、くそ、僕はその後に続く言葉通りのことをしてしまう。しかもそれは、非常にくだらない、恐怖に支配されてだ。喉に舌が引っ付いて離れず、僕はどんな時でもそれをしなくてはと体が反射してしまうようになったのだ。    それと、僕は父の持つ竹刀(それがなんだったかわかってない。そんなに竹刀見る機会ある?)が非常に怖かった。それは鞭のようにしなり、逃げ惑うと容赦なく打たれたのだ。庭の垣根まで逃げてしまえば右へ、左へ柱に追突するまで走る。しかし、柱が見えてしまえば、おわりだ。行き止まりなのだから。竹刀が、しなる。これは、センスがいいだろうか? 「二階堂、あ、いや池上」  隣のクラスの近藤である。あまり記憶力が良くない男らしく、女子からは歯を洗っていないので嫌われている。 「何か用?」  これからトイレに行くときに呼び止められ、僕は上履きを近藤に向けた。近藤は口の臭さを気にしてか、顔を背けながら僕とたまに目を合わせる。 「あのよ…、これからちょっと話せねぇか?ここじゃ、な?ちょっとなんか人多いし」  時折目を向けられるが、たかだか10分休み程度である。廊下の人通りはそんなに多いわけではない。今だって、女子が2、3人連れ添ってやって来たくらいだ。しかし、その気取った態度や、話せる場所がどうやらトイレっぽいので僕はいいよと了承した。近藤は、今朝ももちろん歯磨きをしていないこと間違いなしの口でおし!と言った。僕はツンとするアンモニア臭を堪えつつ、近藤と連れなってトイレに直行した。どうやら女子トイレに比べて衛生的に汚さ130点の男子トイレは誰もおらず、僕は左から3番目のスリッパに足を突っ込んだ。 「俺はなんかいいよ。話だけする」  僕は眉を潜めた。なんかとはなんだ。僕は仕方なく、ズボンのジッパーを下げ、芳香用に置かれたっぽい所々変色したボールに命中するように狙いを定めて小便をした。 「白百合っていいよな。綺麗で、俺昔百合の根っこをあれ玉ねぎと勘違いして食いかけたことがあったんだ。小学、何年くらいだったか、デティール?は覚えてないけど」  シンと静まり返っていて針を落としても耳に届くような静寂の中で僕の小便の音が反響するのは非常に恥を覚えるので、近藤に話は何だと振ろうとしたが、その直後よくわからない話を立て板に水の如く止め止めなく話し始めた。 「先生を呼ばれて、俺はあえなく死なずにすんで、俺はその日死ぬほど父親にどやされて、俺はそれ以来図鑑で調べたユリ科の食物はなんも食えなくなった。玉ねぎはもちろんにんにくとかな。なんか食う気なくすんだよな。でも見るんなら、まじで好き、特に白百合は」 「うん」  なんの話をされているのか、腹立ったが、僕は軽く小さな相槌を打つだけにした。毛ほどに興味ないが、好きに話しゃ良い。右耳から左耳に通り抜けていく。 「俺それで、最近百合の配合に凝っててさ。それが結構おもろいんだよな」「は?百合って自分で生み出せんの?」 「いや、現実じゃねーよ。現実なわけねぇし!ゲームだよ、なんて名前だったか、ちょっと思い出せないけど」 「お前、ほんとうに記憶やばいな」「やばかねぇし!」  近藤は僕のその態度にちょっと驚いたようだった。拍子抜け、とも言えるだろう、あまり賢そうじゃない顔を必死に賢く見せようとした。 「お前、あの、二階堂なんだよな?」僕は一瞬二階堂という言葉に反応してビクついた手を丸め、ジッパーを上げた。 「うん、旧姓だけどね」「お前ゲームしねーの?」要領を掴まない話だ。「しない」  近藤はちょっと顔を横に向け、試案めいた顔をした。「じゃ、お前は二階堂じゃないんだな」 「に、にかいどうではある。が、今は違う。僕は池上で、あまりその苗字は読んで欲しくない」 「そりゃ悪いことしたな。うーん、ま、そうか、お前は二階堂じゃないのか…」  おい!こいつの頭にはクズしかはいっていないのかと怒鳴りそうになった。近藤は手を洗う僕の鏡の後ろで生えかけの顎髭を気取って撫でていた。探偵みたいな仕草だった。「うーん、ならいっか。じゃ、あんがとよ」  近藤はあっさりと扉兼仕切りを押し、その場を立ち去った。わけがわからない。なんの話をしたって言うんだ。僕は早急に仕度をしたせいで少しポジションを直しつつ、呆然とした。近藤は、百合の話を誰かにしたくてたまらなかったんだろうか。それなら、僕じゃなくていいだろう。それにあの野郎、何回も何回も二階堂と呼びやがって、くそ!まじでくそ!!  
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