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おれが生まれたのは深い森に囲まれた小さな村だった。何も無い村から抜け出す
願望を抱きながら育った俺だが、何故、十六歳になった今でも村に留まり続けて
いるのか問われれば、それは彼女の……二つ年の離れた幼馴染の存在が大きいの
だと答えるしかない。いつでも俺の後ろを付いて歩き、甘えてくる彼女のことを
かわいい妹のように思い、本当の兄妹のように過ごしていたが、俺はいつの頃か
らか彼女を異性として意識するようになっていた。勿論、軽率な行動は駄目だと
分かっていた。兄の様に慕い信頼してくれる彼女を裏切り、傷付ける様な真似は
かみに誓ってやっていない。彼女の笑顔を守る為ならどんな苦労も厭わない、ず
っと彼女の傍に居られるだけで……只、それだけで俺は幸せだったのに……すべ
てはあの忌まわしい日から変貌を遂げてしまった。
魔王の使者と名乗る魔物が村に現れ、生贄を差し出す事を要求して来たのだ。魔
王の使者は少女一人に対し、百年の繁栄を約束すると言い放った。村長は皆から
様々な意見を聞き考えるが、力無き民から生贄以外の案が出る訳もなく、瞬く間
に魔王との約束の日は訪れた。村は出稼ぎをする者が多く老いた者だけが残る。
逆に言えば若者が少なく、年頃の女性と言えば彼女だけに限られてしまう。だか
らこそ彼女は自ら村長に申し出たのだろう『私が生贄になります』と。それが例
え本心だとしても俺は絶対に納得などしない。いや、本心であろう筈が無い。半
ば諦めにも似た感情で放った言葉なのは良く分かる。俺達が幸せになる姿だけを
あたまに思い描き、恐怖の感情を必死に抑えている様は見ていて痛々しい。それ
なのに何故俺には何も出来ないのか……生贄に行く必要は無いのだと、何故たっ
た一言で済む言葉でさえ俺の口は発しないのか……臆病な自分が嫌になる。それ
はどんな言い訳を並べても許せるものではない。このまま彼女を見捨てるのか?
殺されると分かっている彼女をこのまま手放すのか? 俺はそんなにも卑怯でな
さけない男だったのか? 俺は自分でも気が付かないうちに呻き声を漏らし、零
れ落ちる涙で頬を濡らしていた。そんな醜態を晒しても尚、村人は誰も俺に掛け
る言葉が見つからないのか、ただ静寂の時間だけが過ぎて行った。
それから数十分ほど経った頃、重い沈黙を破るように、彼女が俺に向かって微笑
んできた。『みんな暗い表情で話をしてるけど、当事者である私を無視して勝手
な結論を出さないでよね』 誰も予測しない言葉が彼女の口から放たれる。驚く
事も忘れ放心していると、彼女が信じられない様な言葉を投げ続けてきた。『私
は生贄が嫌だなんて思ってないし、むしろ良かったと思ってるの、何も無い村で
耐え忍ぶのはもう限界なの、いつか、どんな事をしてでも村を出て行くって、ま
えまえから計画してたのよ……だから魔王様には感謝してるわ』 皆は呆気にと
られているが、彼女は構わず生贄になれる事の喜びを俺に向かって訴える。『そ
れにほら、すぐに殺されると決まった訳じゃないし、召使を募集したのかも知れ
ないでしょ?』 彼女自身も何を言ってるのか分からなくなってるのかもしれな
い、話が意味のないものへと変わってきていた。
わけの分からぬ理屈を続け、俺を必死に説得しようとする彼女を見るのは辛かっ
た。『いいから……もういいからやめてくれ!』 大声に彼女は戸惑うが、俺は
しずかに瞳を見つめ、そして彼女をそっと抱き寄せた。『な!……何してるの!
はなしなさいよ! 私は魔王様の所に行きたくて行くんだから!』 ばかやろう
どうしてお前はそんなに意地っ張りなんだ……そんな、涙でグチャグチャの顔で
うそついたって、俺が騙される訳ないじゃないか。世界に溢れる嘘は、自分の嫌
な部分を隠す為……只それだけの為に相手の事を傷付け、苦しめているから、真
っ赤な血の色をしているのだと言う。でも彼女の嘘は違う。おれの事だけを考え
てくれる……そんな優しさの詰まった真っ白な嘘だ。『早く離しなさいよ! 何
も嘘なんてついてない! あなたの事なんか大っ嫌いなんだから、これ以上私に
構わないでよ!』 腕の中で激しく抵抗する彼女を俺は離さなかった。策がある
わけではない。魔王に抵抗できる力がある訳でもない。只、この手を離したくは
ない……俺はその想いだけで強く彼女を抱き締めた。 そしてお互いを見つめ合
い、静かにそっと唇を重ねるのだった。
ありもしない希望に身を委ねてしまった事を彼女は悔いているようだった。そん
な夢の様な未来が訪れる筈はないのにと。俺には彼女を救えないのか、魔王が来
た時に只、見ている事しか出来ないのか……自問自答をいくら繰り返しても、時
を費やすだけで答えなど得られはしない。絶望の闇が二人の心から時間の概念を
失わせる。どれほどの時が流れたのだろうか、何もない空に亀裂が走り、禍々し
い妖気を纏った男が一人現れた。おそらくこの男が魔王なのだろう。その姿を見
た俺と彼女は……いや、村人全員が恐怖に身を縛られ、その場を動く事が出来な
くなっていた。魔王は無表情で俺達に近づき、身を震わせる彼女に向って言いは
なった。『お前が生贄となる娘か』 恐怖を拭えはしないのに、俺の腕を振り解
いて、魔王の元へと歩み寄る彼女は静かに振り返り、俺の目を見つめながら最後
の言葉を呟いた。『ばいばい……大嫌いなあなた……』
嘘が下手なのにも程がある。今更そんな言葉を俺に信じろと言うのか。魔王の顔
を睨みつけるように彼女は言葉を振り絞った。『私が生贄としてあなたの元へと
ついて行けば、村の人達には手を出さないんですね? 本当にこの先百年間は辛
い事が起きず、みんなが幸せに生きて行けるようにしてくれるんですね?』『全
てはお前次第だ』『私は逆らったりしません! 魔王様に従います!』 彼女は
ごびを強め、約束の言葉を要求した。『気に入ったぞ娘、お前の血で我が身を染
め上げれば不死へと近づく!』 彼女の血でだと? 駄目だ駄目だ駄目だ! そ
んな事は絶対にさせない! 彼女の死が確実なものだと聞かされた俺の心には、
なに者をも恐れぬ勇気が芽生えていた。しかし魔王は俺の事など意に介さず、さ
さいな存在として無視をする。その後も彼女に対し、生贄がどれほど凄惨でむご
い死を迎えるのかを延々と語り聞かせていた。
傷を付けて血を流すだけでは不死には近づけないらしい。絶望で心を満たし、い
つ訪れるのか分からぬ死の恐怖で心を砕き。発狂する事も許されぬ地獄で痛めつ
け、そうして得られた血こそが重要なのだと。俺の事を気遣い、気丈なフリをし
ていた彼女の顔から血の気が引いていく。本当にもう何も出来ないのか……さい
ごに彼女の心を救えないのか……いや、ある……俺にだけ出来る事が一つ。『ご
めん、俺にはお前を救う方法が一つも思い浮かばないんだ……でも寂しい想いな
んてさせはしない……俺もお前と一緒に死の世界へ付いて行ってやるよ』『そん
な事に何の意味があると言うのだ』 俺は怪訝そうな表情の魔王に対し力の限り
さけんでやった。『あんたは村人全員を幸せにしてやると言ったけど、こいつが
いない世界じゃ俺は幸せにはなれないんだよ! こいつが俺の全てなんだ!』
世界中の女性から好意を持たれたとしても、そこに彼女が居なかったら、俺は世
界で一番不幸な男になってしまう。たとえ財宝を目の前に積まれ、何一つ不自由
の無い暮らしが出来たとしても、隣に彼女が居なければ幸せとは呼べない。他の
誰でもない、彼女の存在こそが俺の幸せであり、守るべき物なんだ。死への恐怖
よりも、彼女を失う恐怖の方が遥かに苦しい。あんたなんかに与えられる幸せよ
り、俺は彼女と永遠に添い遂げられる死を選ぶ! 彼女も大粒の涙を流し、何度
も何度も頷いている。すると魔王が大声で笑い始めた。『あははは! 恐怖より
愛情の方が勝るとは、これだから人間は愚かで……そして面白い』 現状を見る
しか出来ない俺は、優しく彼女を抱き寄せ、魔王を睨みつけた。『死を受け入れ
ている娘など、生贄としての価値はない』 俺達二人に背を向けた魔王はそう言
い放ち、空にある亀裂へと向かった。『我の邪魔をする痴れ者は貴様だけなのか
まだ他にも居るのかは知らぬが、いずれにせよ、貴様や貴様の血を濃く継ぐ者が
すべて居なくなるまでほんの僅か……千年ほど眠るとしよう』
大地は元通りの静けさを取り戻し、空は魔王が訪れた事実など無かったかの様に
すみ渡っていた。『魔王様は本当に帰って行ったの……』 信じられぬ喜びに泣
き声をあげる事もわすれ、俺達はお互いを抱き締めその存在を慈しんだ。大好き
な人がいつも傍に居る、これ以上幸せな事が他にあるだろうか。今後もお互いに
あいてを思う気持ちがあれば魔王の力は必要ない。苦しい時も悲しい時も、どん
な時でも彼女と一緒なら幸せに変えられる。魔王が消え、彼女に本心を聞いてみ
た、『ばか……あなたなんか……大嫌いよ……』 はは……本当にこいつは嘘が
へたで可愛い、真っ白な嘘つきだ……。 ーfinー
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