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4話
「失礼します。」
「そこに座りなさい。」
「はい。」
翌朝、言われた通り社長室に来ると、1つの紙の束を渡された。
「これは…?」
「今回の契約についての書類だ。目を通しなさい。」
「はい。」
本格的…
でも、書面にしてもらえている方が、私としても有難い。
社長がそんな事するとは思って無いけど、こっちは仕事も辞めて離婚歴も付くわけだし、いざとなった時に言った言わないにならなくて済む。
…うん。
昨日社長が提示してくれた条件がそのまま書かれてる。
部屋は別々、お互いに干渉は一切しない。
お金の事も、離婚後の事も提示通り。
あれ…これは昨日言ってなかったな。
夜の生活については求めない、か。
そんなの書かなくても、社長が私に求めて来るなんて一ミリも思ってないのに。
社長の周りには綺麗な女性がいっぱい寄ってくるだろうから、態々私に求める必要なんて無いだろうしね。
私だって、いくら契約とはいえ感情が共わないのは嫌だもの。
「…はい、問題無いです。」
「じゃあ、最後のページにサインを。」
「分かりました。」
これを書いたら、契約成立…
ちょっと緊張してきた。
震えそうになる手を何とか抑え、自分の名前を記入する。
「俺もサインするから、書類をこちらへ。」
対面に座る社長が書きやすいように、上下を反転させて差し出す。
サラサラと万年筆で綺麗にサインする姿は、流石社長という印象だ。
「これで契約成立だ。」
これだけで緊張しちゃってるけど、本番はこれからなんだよね。
社長と1つ屋根の下で生活…全く想像できない。
いくら部屋は別々でも、完全プライベートな時間に顔を合わせる事になるのか…
スッピンにパジャマで家の中をうろつかないようにしよう。
「1つ聞いてもいいか。」
「はい。」
「この結婚を決めた理由はなんだ?」
「え?」
決めた理由?
「昨日この話をした時は明らかに迷った様子だった。現に君は、明日まで待ってくれと言っていたはずだ。なのに昨夜、その期限を待たずに返事をしただろう。そこには何か理由があるんじゃないか?」
「あ…」
契約でも結婚するなら、話しておいた方がいいのかな。
「社長は、私が祖母の為に結婚相手を探していたのは御存知ですよね。」
「ああ。昨日話しているのを聞いたからな。」
「祖母には、もう時間がないんです。」
「時間がない?」
「…末期癌で、主治医からは長くて後3か月かもしれないと言われています。今はホスピス病棟に入院して、薬で痛みを抑えているんですけど、昨日病院に行った時に丁度痛みで苦しんでいて…その姿を見て、この結婚を決めたんです。お祖母ちゃんに心残りがあるまま逝かせたくないって。」
「心残りというのは?」
「癌の告知を受けた時に、心残りとしたら私の花嫁姿が見られそうにないことだと、祖母が言っていたんです。」
「なるほど。それで結婚式を早急に挙げたいわけか。」
「はい。」
社長は一度宙を見上げた後、まっすぐに私に向き直った。
いつもは冷たい印象すら受ける切れ長の目。
「分かった。出来る限り早く予定を組もう。」
「ありがとうございます。」
だけどその時の社長の目は、どこか優し気に私には見えていた。
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