お客様は神様ですか?

1/30
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
「愛子、お腹空いてる?今日は早めに店も終わったし」 平日の夜、近石良輔は電動自転車漕ぎながら言った。 「うん。良ちゃんの奢りね」 「なんでだよ。生活費はお前が管理してんだろ?」 「たまにはいいじゃない」  結婚七年目の夫婦はなんだかんだ仲は良い。 「しょうがねえなあ。いつものラーメン屋でいいだろ?」 「えー、またあそこぉ?」  いつものラーメン屋。大手チェーン店のラーメン屋。値段も安く、人気メニューも多い。 「たまにはお勉強も兼ねて、いいお店に行こうよぉ」  お勉強。近石夫妻は都内、高円寺でうどん居酒屋を営んでいる。良輔は高校を卒業してから本格的に料理の道に入り、いろんな店で料理を学び、いろんな店で働きながら金を貯め、五年前に独立をした。良輔の営むうどん居酒屋「げんき」は毎日変わる日替わりのお勧めメニューが売りだ。もちろん看板であるうどんは関西風の鰹節と昆布だけで作る出汁と秘伝のかえしを加えたうどんつゆは温かいのも冷たいのも評判は良い。麺も手打ち式で拘りがある。季節によって塩分を変え、その喉越しも東京ではなかなかお目にかかれないぐらいのものであった。それでも売りは毎日変わる二十行のお勧めメニュー。自分の引き出しを増やすために他店に「お勉強」と銘打って二人で食べに行くこともある。良輔は一度食べた料理をそのまま再現出来る。 『このマリネは出汁7、お酢3、薄口醤油1、みりん1、砂糖0・5』  学生時代から料理が趣味だった。三十五歳にして激安店に囲まれながらも「げんき」を繁盛させているのは良輔の持つ力であった。 「いいんだよ。今日は疲れてるし。さっさと食べて帰ろう」  そう言いながら良輔はラーメン屋のドアを開ける。 「すいません。ただいま満席でございまして。少々お待ちいただけますでしょうか」  ラーメン屋のホールスタッフである女性がマニュアル口調で言ってきた。 「あ、そうですか。どれくらい待ちますかね?」 「五分十分でご案内出来ると思います」 「それでは待たせていただきます」  良輔の言葉を聞いてから、女性スタッフは頭を下げてホールに戻っていった。広い店内だが客でにぎわっている。 「十分ぐらい待つって」 「えー、だからお勉強行こうって言ったのに」 「十分なんてすぐだよ」  そう言って店内を見渡してみる。カウンターは満席ではない。一人で食べている客。二人で食べている客。客と客の間には必ず席が一つずつ空いている。四人掛けのテーブル。八つあるテーブル席の半分は客が一人で座って食べている。中にはテーブルに一人で座って寝ている客もいる。寝ている客のテーブルの上には瓶ビール一本のみ。  近石夫妻の後からも客は入ってくる。四人連れの団体客。 「ちょっと待つってよ」 「待てないから他の店行くか」  そう言って店を出ていく団体客。その後もひっきりなしに店に入ってくる客。待てない客はみんな店を出ていく。十分以上待ったが席は空きそうにもない。すでに料理を食べ終えた客も煙草を吸いながら、水を飲みながら、会話に夢中になっている。 「すいません」  良輔はホールスタッフの女性に声を掛けた。 「僕ら、席は別々でいいですのでカウンターの空いている席に座らせてもらっていいでしょうか?」 「それは構いませんが…。別々でも大丈夫でしょうか?」 「はい。注文は出来ますよね?」 「それは大丈夫です」 「なら、それでお願いします。愛子、いいだろ?」 「うん。全然いいよ」 「それではこちらとこちらにお座りになってご注文決まりましたらおっしゃってください」  こんなことには慣れている。近石夫妻はそのまま別々の席に座り、料理を注文し、黙々と食べてからすぐにお会計を済ませて店を出た。この二人より先に店を出たのは一人の男性客だけだった。 「毎度ありがとうございました!」  厨房も含めてスタッフ全員の大きな気持ちの良い声が二人に掛けられる。 「あのおっさん、たぶん閉店まで寝てるよ」  店を出た後、良輔は吐き捨てるように言った。  定休日は毎週月曜日。「げんき」は良輔と四つ年下の愛子の二人で営業している。席数はカウンター八席。四人掛けテーブルが四つ。満卓だと最大二十四名の客が入る。個人店なのでどちらかが体調を崩すと店を休まなければならなかったがオープンから五年間、一度も店を休ませたことはない。 「飲食店は水商売」  個人事業主であり、毎月の給料が固定でもない。これまでの五年間もたくさんの苦労をしてきた。物件の契約や内装費だけで一千万万円かかった。うどんのたまを伸ばし切断する機械や、茹でる釜、業務用の冷蔵庫。言い出したらキリがない設備投資。自己資金だけでは足らず、銀行から八百万円の融資を受けた。それでも四年で借り受け金は返済した。基本、肉、野菜、魚。そして酒。〆にうどん。とにかく酒を飲んでもらって利益を出す。旬の刺身やバケット添えのアヒージョ、レバパテだって出す。「げんき」の日替わりメニューで千円を超えるものはない。根室産の白子だろうと四百八十円で提供した。生牡蠣一個二百八十円。お一人様二個まで。メニューの中に目玉を何点か入れる。ほぼ原価での目玉。 「これがこの値段?」  客は驚く。刺身三種盛りもオーダーが入ればありったけの刺身を盛った。三種盛りで頼んだ客の元には七種盛りの刺身が。このサプライズが「げんき」だ。良輔の拘り。 「客が驚く料理を」  器にもとことん拘った。休日は河童橋にも足を運び、時に自ら木材にバーナーで焦げ目を付けて自作の器も作ったりした。 「器は料理の着物」  良輔の拘りには妻の愛子も呆れるほどであった。  それだけの低価格、どれを食べても旨くて幅広い日替わりメニュー、そして高級感、ジャズが流れる店内に消音のテレビ画面には懐かしの洋画。仕事の接待にも、男が彼女を連れてくるにも、酒飲みの隠れた穴場にも。そんなお店を目指した。  それでも常に数字は徹底して意識した。原価率四十パーセント。うどんは粉ものであり、原価は安い。一杯のうどんでも単純計算でかけで四十円超えるほど。一杯数百円の利益であるうどんで儲けようとは考えていない。「げんき」はうどん居酒屋である。魚は新鮮なものは刺身で、少し鮮度が落ちればなめろうに、なめろうで出なければそれを大葉で包み天ぷらにした。一日しか鮮度が持たない鰹であろうと二日目には火を通し、ガーリックステーキにして客に振舞った。それでも在庫になるようならサービスでどんどん常連客に出す。肉は冷凍で保存出来る。一人前ずつラップで小分けしておけば電子レンジですぐに解凍出来た。もちろん客の見えるところに電子レンジは置かない。レンジもダイヤルのタイマー式を使う。「チーン」と言う音は絶対に客に聞こえさせない。レンジの横に別のタイマーを取り付けてある。レンジの扉を開けておけばレンジのタイマーは回らない。閉めればすぐにレンジは動き出す。焼き物は二台のローサーをフル回転させた。肉や魚をローサーで熱する。時間さえしっかりと把握していれば一台のローサーが職人一人分の仕事をする。一番保存が利かないのが野菜である。それでも安い中国産は使わない。国産に拘る。大葉などはまとめ買いしても濡らしたティッシュで根元の部分に水分を与えてやると長持ちする。しかし、トマトなどはすぐに硬さが失われてしまう。ブヨブヨのトマトなど客には出せない。千切りにしたキャベツも翌日には使えない。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!