1 登山隊、出発

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1 登山隊、出発

「各自、登山届は書いたな」わたしは温めていたジョークを披露した。「こいつが命をつなぐかもしれんぞ」  メンバーたちからはまばらな笑いが起きただけだった。それも明らかにお義理で笑ってやっているという感じで。どうも滑ったらしい。 「ぼくはこのありがたい書類のおかげで死を免れた連中を1ダースは知ってる。少しはまじめに話を聞く気になっただろう」 「もういいからさっさと登り始めましょうや」まだ年若い――たったの1,500歳――根岸は退屈そうに首の凝りをほぐしている。「つまらないジョークでみんなの士気を下げるのが目的だってんなら、話はべつですけどね」 「自分も根岸さんに賛成であります」コミュニティ最年少(彼にいたっては生まれて10世紀も経っていないのである、驚くべきことに)の二宮がさっと敬礼した。「正直に申告いたしますと、リーダーのジョークはいささか寒いであります」  根岸がよくやったと言わんばかりに、人差し指と親指で環を作った。 「まあまあ二宮、あんまりいじめてやるなって。こいつにユーモアのセンスがないのは先刻承知だろ」 「かすみ姉さん、言うに事欠いてセンスがないはひどいんじゃないですか」 「実際ないんだからしかたないさ」  森下さんはげらげら笑っている。彼女はわたしより2世紀ほど年上であるが、登山技術の差やら心理的な傾向やら遺伝子型の適性やらでサブリーダーとして参加している。  彼女の笑い声は尻すぼみに途切れ、なんとなく厳粛なムードになった。誰に命じられたわけでもないのに、われわれは眼前にそびえる峻厳な〈クォンタム山〉を見上げた。起こりうるすべての事象が混在しているのだろう、下部はたゆたう波動関数の波でぼんやりと霞んでいる。われわれ量子人の住む地表と同様、なじみ深く心安らぐ風景だ。  ところが視線を上へとずらしていくにつれ、だんだんと〈クォンタム山〉は確固たる実態を獲得していく。登山口からは裾野が広すぎて山頂は見えないものの、中腹あたりから事象の霞が晴れ始めているのが確かにわかる。おそらく山頂付近にはたったひとつの事象しか存在しないにちがいない。いったん収束したが最後、波動関数が二度と発散しないこの星でもっとも危険な領域……。  思わず息を呑んだ。そんな罰当たりな場所へこれから登ろうというのである。 「どうした日下部、顔が真っ青だぜ」 「そういう姉さんこそ、足が震えてますよ」 「バカ野郎、こりゃ武者震いだ」  そういうことにしておこう。根岸は陽気に口笛を吹いているが、その実メロディラインはめちゃめちゃだ。二宮はいつも以上にしゃちこばった不動の姿勢をとっている。  怖くないやつなんていないのだ。それでもわれわれは〈クォンタム山〉に登る。  停滞から抜け出すために。
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