3 量子人はいかに量子人たりえているのか

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3 量子人はいかに量子人たりえているのか

 そんなわけで、ついに登山は始まった。  地図によれば登山道は一直線なんかではぜんぜんなく、沢を辿って峠を乗り越したり、尾根を辿って気の遠くなるような縦走をやらかす必要もあるようだ(地図はなんでもご存じの〈管理者〉からハードで吐き出されてきた。等高線のびっしり入った〈クォンタム〉山系の詳細なルートがである。たぶんこの星がクォンタム・フォーミングされる前に冒険心に富むご先祖が踏破したのだろう)。  地図の縮尺を参考に歩行距離を計算してみると、実に67キロメートルという気ちがいじみた数値になってしまった。開始地点は海抜ゼロメートルなので(誰が海抜ゼロメートル以上の土地なんかに住みたがる?)、標高差は当然3、190メートルである。 「なあ根岸、いまならまだ間に合う。家に帰ろうや」 「まずは〈上高地〉までの緩やかな登りですね」やつは全面的にわたしの泣き言を無視した。「等高線もまばらだし、出だしは楽そうですよ」  登山口は大勢の観光客でにぎわっている。怖いもの見たさにちょっとばかり標高を稼いで〈地表〉では味わえないスリルを楽しみにきている、まったく救いようのない手合いだ。連中は85リットルもの大容量ザックを担いで神妙な顔つきをしているわれわれ四人を見て、顎が胸につくくらいあんぐりと口を開けていた。  先頭はサブリーダーの姉さん、二番手と三番手は根岸、二宮の順で組み、しんがりはリーダーのわたしだ。まずは長い長い河原歩きが待っている。〈クォンタム山〉ははるか向こうに(量子的な意味で)かすんでいる。  わたしたちは観念して歩き出した(登山届は出さなかった)。この日のためにさんざんっぱら体力作りと技術の修練に励んだつもりだったが、途端に汗が吹き出して息が荒くなる。ザックの全備重量が27キログラムもあるのがどう考えても悪い。大量の食糧と寝具一式、それに水とクライミング用のギアもぶら下げている。  気候は量子的にコントロールされているのでつねに一定、晴天か雨天かなどは当然として、その日の気温すら(長い観測の結果として)あらかじめ判明している。われわれはただカレンダーとにらめっこし、晴天の続く日取りを見繕って山行計画を立てればよかった。そうは言っても夏が暑いのまで波動関数でどうこうできるわけじゃない。暑いものは暑い。 「最初が沢道でよかったであります」息も絶え絶えに二等兵。 「ひどい暑さだな。今日は猛暑なんじゃないのか」  姉さんのジョークで控えめな笑い声が上がった。〈地表〉にへばりついて暮らしている限り、気温は平均値プラスマイナス2度までしか変化しない。 「見てください、そこらにさっきから妙なマークがありますよ」  根岸が指さした岩には赤いペンキで大きく丸印が描かれている。「こっちで道は合ってるという意味だろうな」 「僭越ながら提案であります」坊主が美しい挙手をやってのけた。「道があるとわかったところで休憩にするころあいかと思料します」 「まだ歩き出して15分しか経ってないぞ」  彼は目を丸くした。「かすみさん、嘘だと言ってください」  こんな調子で沢の遡行は続いた。やがて陽は傾き、各人の体力も順調に消費されていった。先陣を切っているかすみ姉さんの歩調は目に見えて鈍っているし、二等兵にいたっては現世と冥府のあいだをいったりきたりしているというありさま。  普段から運動を習慣にしていない量子人にとって(暴飲暴食をやらかしても波動関数が超高効率の代謝活性を叩き出してモテスリムに整えてくれる世界で、身体を動かそうとするインセンティヴは湧きにくいものだ)、30キロ近い荷物を背負って歩くのがどれだけつらいかは筆舌に尽くしがたい。  見かねて声をかけた。「今日はここまでにしよう。ちょうど幕営によさそうな空き地もあるし」  三人はいっせいにザックを放り出し、河原にへたり込んだ。わたしもそれに続きかけたものの、リーダーの威厳を保つためにどうにか堪えた。  これ以上ないほど緩慢な動作でテントが張られ、野営の準備が整ったのは1時間後であった。みんな疲れ切って泡でも吹きそうなようすである。なにが信じられないといって、いまの惨状がありうる事象のなかでもっともましな状態だという点だろう。  この日はせいぜい10キロも歩けていないだろうし、標高的には200メートルも稼いでいれば御の字である。この程度の高さなら波動関数のふるまいは〈地表〉とほとんど変わらないはずだ。  げんに誰も転んだり熱中症でぶっ倒れたりしていない。一通りの練習をしたとはいえ、付け焼刃のなまくら集団がいきなり歩荷登山をやらかして無事にすむはずがない。  にもかかわらず無事にすんでいる。まだまだ〈事象の固定点〉は遠いということか。 「思うんですけどね」豚のえさもかくやといったインスタントラーメンをすすりながら、根岸がぼやいた。「俺たちの世界が量子的に記述されてるなら、なんでトンネル効果は起きないんです。自分で企画しといてなんですけど、登山なんぞをやらかさなくたって次の瞬間、どういうわけか山頂にいたって罰は当たりませんぜ」 「トンネル効果はマクロ事象じゃ起きない決まりだろ」 「その伝でいけば姉さん、量子的な重ね合わせだってそうじゃないですか」 「ぼくらの世界はそこまで都合よくできてるわけじゃないんだ、根岸」  青年は片眉を上げた。「おうかがいしましょうかね、日下部大先生」 「いまだかつて誰もボーリングしてないから仮説にとどまってるが、この惑星の中心にはどえらいしろものが埋まってる――ということになってる」  陽はすっかり沈み、光源は枯れ木を集めたキャンプファイヤーのみ。老木の爆ぜる音がしじまの降りた河原に響く。 「量子場発生機ってやつか、日下部」 「それが最右翼ですね。ミクロ世界のルールをマクロ世界に拡張する機械が埋まってる。もしくはわれわれ自身が気づいてないだけで、とんでもなく小さいんだという説もあります」 「自分の意見としては」二宮はいつでも挙手を忘れない。「少なくとも自分は量子サイズだという実感を持ったことはないであります。もしそうなら、いま吹いてる心地よいそよ風でわれわれは地平のかなたまで吹っ飛ばされてるはずです」 「わからんぜ。世界そのものが針の先に乗っちまうくらい小さいのかもしれない」  不満そうに森下さんが割り込んだ。「待てよ。あたしの使ってる定規のスケールはセンチメートルだぞ」 「そういう表記になってれば疑う理由はないでしょ。壮大なペテンなのかも」 「ぼくらが針の上で何十人も踊れる天使なら、さっき根岸が不平を垂れたトンネル効果が起こるはずだ。したがって量子人ミクロサイズ説は否定できる」  姉さんが背中をどやしつけてきた。親しみを表現しているつもりなのだろうが、毎度手加減なしでやられるのには閉口する。「焦らさずにさっさと吐けよ」 「標高が上がるごとに波動関数のごたまぜが緩和されるという点に着目してみてください。これは惑星を中心にした球形の効果があることを意味します」 「サー、するとやはり量子場発生機に軍配が上がるのでありますか」 「そうは思わないね」  背中にもう一撃。「今度もったいをつけてみろ、しまいにゃ締めるぞ」 「人間の脳が量子コンピュータだとする大むかしの説はご存じですね」 「知るはずないだろ」先輩はラーメンをすすり、露骨に顔をしかめた。「いいよ、便宜上そういうことにしとこう」 「量子力学のコペンハーゲン解釈にまつわる観測問題があるでしょう、誰が波動関数を収束させてるかってやつですけど」 「それを知らないやつがいたら驚きだね」  話の落着点が見えてこないのだろう、二人の青年も訝しそうに眉根を寄せている。 「観測者が誰なのかいまでも活発に議論されてますが、もしわれわれの脳が決定権を持ってるとしたらどうでしょう」 「お前が〈人間原理党〉の党員だとは意外だな」  わたしは森下さんの皮肉を無視した。「仮にそうだとすれば、脳のどこかに波動関数を収束させる器官があるはずですね。それはある特定の一部かもしれないし、脳全体に分散されてるのかもしれない」 「自分は一部ではなく、全体だと思います」二等兵がぼそりとつぶやくのが聞こえた。「その説が本当だとすればですが」 「どっちにせよ脳が決めてるのなら、それは遺伝子に還元できる」  反論はなかった。お湯をすする音だけが河原に響いている。 「遺伝子の塩基配列が波動関数の収束に関わってるのなら、発散にだって関わっていけない理由はない」 「わかったぞ、あんたはこう言いたいんですね」根岸が割り込んできた。さかんに両手を振ってわたしが答えを言うのを妨害している。「俺たち量子人は波動関数の収束と発散を自在にコントロールできるよう、遺伝子操作された系統の子孫だ」  わたしは人差し指と親指で環を作ってみせた。「よくできました」 「あたしはてめえの脳みそにこの世のふるまいを決める大それた機能があるとはどうしても思えないけどね」姉さんは口をすぼめた。「ま、惑星の核にお化けみたいな機械が埋まってようが遺伝子が観測者だろうが、どっちでもいいけど」 「日下部さんのご意見ですと、標高が上がるにつれて事象が固定される理由が説明できないと思われますが」 「そこなんだよ二宮。もしかしたら量子場発生機説とのハイブリットなのかもな」 「待った、答え言うの待った!」例によって青年がさかんに両手を振って、「惑星の核に埋もれたマシンは遺伝子の観測をなんらかのかたちで助けてて、その効果は球形の一定範囲。〈事象の固定点〉に近づけば近づくほど、補助が得られなくなって遺伝子は最高の仕事ができなくなる」会心の笑みを浮かべて一同を睥睨した。「どうです」 「わかったわかった、もうそれでいいよ。難しい話をしてると頭が痛くなってくるんだ、あたしは」姉さんは大きく伸びをした。「明日も早いんだ、もう寝ようぜ」  異論はなかった。わたしたちはシュラフにくるまり、ぐっすり眠った……と言いたいところだが、慣れない固い地面と狭苦しいテントという特異な環境にすっかり身体は面食らってしまったらしく、全員が2時間おきに目を覚ましては時間を確認し、悪態を吐くという地獄絵図となったのである。
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