4 魔の山、量子人に切り傷をこしらえる

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4 魔の山、量子人に切り傷をこしらえる

 それからも変わり映えのしない登山が続いた。 〈クォンタム山〉は裾野が非常に広く、独立峰でもないのでいくつも峠を乗り越し、稜線を渡って縦走しながら徐々に距離を詰めなければならない。山脈を奥深く分け入ったその先に、頭ひとつ飛び出た堂々たるピーク、それが〈クォンタム山〉なのだ。  道のりは長かった。序盤の河原歩きはまる2日もかかり、標高500メートルほどの峠に着いたあたりでようやく、山に入っているという感じになってきた。ここでちょっとした意見の対立があった。  すなわち①峠をそのまま下って沢に降り、次の峠を目指すべきか、②峠から尾根に取りつき、大回りで稜線伝いに歩いていくか。前者は最短ルートではあるものの、いったん大きく標高を下げるので垂直距離の変動が激しい。後者はその逆で、水平距離こそ伸びるもののアップダウンも少なく、標高差的には楽だ。  安全第一を理由に②を選ぶのが登山の定石である。しかしわれわれ量子人にとって、たとえ1メートルでも標高は低いほうがよいのだ。このくらいの高さでは目に見えるほどの影響こそないものの、ひとつだけわたしたちを戦慄させる事故が起こった。  峠に詰め上げる直前、根岸が沢の高巻きに通されたザレた道で足を滑らせ、危うく顔面から転倒しかけたのである! 危ないところでとっさに両手を突いたので難を逃れはしたけれども、この冷厳な事実に直面し、われわれは幼児みたいに震えあがってしまった。  根岸は――彼に限らずすべての量子人は――生まれてこのかた、に遭った経験を持ち合わせてはいない。その手の不愉快な事象は自動的に排除されているので、そもそも現実にならないのである。  ここに量子人たちの不自然に長い寿命の秘密があるわけだ。わたしたちは一般的な人類の限界値とされる120歳よりもはるかに長く生き延びられる。平均寿命はおよそ4,000歳にもなる。  先に釘を刺しておくが、量子人が徹底的なカロリー制限をしているとか、テロメラーゼ酵素の活性があるとか、ヘイフリック限界を超越したスーパー細胞を持っているとかではいっさいない。理由はもうおわかりだろう。  すべて量子的な重ね合わせなのだ。〈地表〉で生活する限りにおいて、加齢とともに訪れるはずの機能不全が起こらないように波動関数が収束し、(そんなものがいるとしてだが)病原体に感染しても連中が悪さをする前に免疫部隊によって駆逐されてしまう事象が選択される。そしてもちろん、死につながるかもしれないけがをする転倒なんかは起こりっこないのである。  ところが先ごろそれが起こった。この事実がどれほどの恐怖をもたらしたことか! 無菌室から殺人ウイルスが跋扈する瘴気漂う沼地に放り出されたようなものである。  命からがらコルに詰め上げたあと、臆病風に吹かれた二等兵がいますぐ下山すべきだと喚き散らし始めた。あとの二人も黙ってはいるものの、腕を組んで瞑目し、固く口を閉じている。  わたしだけがちがった。わたしはあろうことか、根岸が転んでかすり傷を負ったことに感動してしまっていたのだ。ここでは本当に――よろしいか、本当に死ぬかもしれないのである! 〈地表〉で働いている慈悲深い量子のカーテンが確かに薄くなっているのだ、大気の濃度とともに。  おそらく根岸がザレ場でずるりと足を取られたその瞬間、すぐ横の谷へ転落する事象もあったはずなのだが、このくらいの標高ではそうした不快な選択肢を排除できるくらいに波動関数の多様性が保証されているのだろう。  高揚した気分も冷めやらぬまま、わたしは②の稜線ルートを主張した。おおかたの量子人が抱く自衛反応とは対照的に、標高を下げたくなかったからだ。いったいどれほどのおっかない事象が待ち受けているのか、期待を抱いてしまう自分がいた。  ところが当然のように三人から①の沢ルートが提案され、リーダー権限を主張して頑強に抵抗したのもむなしく、民主的な多数決によって①が可決されたという顛末だった。  順調に支沢の高巻きにつけられた道を下っていると、くるりと二宮が振り向いた。「サー、さっきのルート選定で禍根を残してなければいいのですが」  努めて平静を装った。「民主主義にはしたがうさ」  やつが歩くスピードを若干落としたので、二等兵と並列で歩くかっこうになった。「なぜ稜線伝いのルートがいいと考えたのか、お聞かせ願えますか」 「予行演習をやっといたほうがいいと思ってね」 「予行演習、と言いますと」 「ぼくは1,800年ばかり生きてるくせに、誰かが切り傷をこしらえたのを初めて見た。きみもその口だろ」 「恥ずかしながら、そうであります」さっと敬礼した。 「ぼくたちはその切り傷で大騒ぎをやらかしたわけだ。たったの数センチばかり皮膚の表面が開いただけで」 「お言葉ですが、大騒ぎをやらかす理由は十分にあったんであります」 「なあ二宮、ぼくたちは〈クォンタム山〉に登るつもりなんだろ。この先もっとおっかない事故が起きるかもしれないんだぞ。あったかい毛布にくるまった生活から隔たった環境に、ぼくたちは慣れておくべきじゃないのか」  しばらく二等兵は黙っていた。不意に緑したたる沢の原色が意識される。目に痛いほどだ。彼は胸の前にぶら下げた水筒から音を立てて水を飲み、口もとを拭った。「登山は安全第一のルートを選定するものです」  若さゆえの負けん気を垣間見せてはいるが、二等兵はどこまでいっても量子人なのだ。  わたしたちはもとの隊列に戻り、訪れる者とてない沢道を黙々と歩いた。      *     *     *  山行は順調だった。予定通り沢の本流に合流し、大規模な出合に好適地があったので幕営する。その日はいつにも増してみんなの眠りは浅かった。〈地表〉以上の標高では確かになにかしらの事故が起きると証明された呪わしい一日の夜にぐっすり寝られるほど、遠征隊の神経は図太くない。  出発から5日め、再び沢伝いに標高を上げていき、またぞろ峠に乗り越す。ここでまたもやルート選定に端を発するいさかいが勃発しかけたものの、今度ばかりはわたしが勝利を収めた。  安全第一の工事現場グループが提唱する沢へ降りていくマンネリルートをとると、次のコルへ詰め上げる直前にすさまじい急登があるのだ(むろんこれはすべて予測である。地形図の等高線の詰まり具合でそう判断するのだ)。  沢道はどれだけ晴天が続いてもドライになり切ることはまずなく、とかく足を滑らせやすい。それが急登となれば、最悪の場合滝になっている可能性もある。ウエットな岩場をよじ登るのは自殺行為なので、消去法で大回りの稜線ルートが了承された。  小ピークを何度も越えていく緩やかなアップダウンの続く縦走は非常に快適で、危険が忍び込む余地はないようだった。夏のぎらついた陽射しも樹林帯によってさえぎられ、ある程度の涼しさも保証されている。  わたしたちは鼻歌混じりに稜線歩きを楽しみ、木々に巻かれたカラフルなペナントにしたがって快調に飛ばした。  そんななか、かすみ姉さんが一時的に先頭を根岸と交代し、しんがりを務めるわたしのところへやってきた。口をすぼめてしきりに首を傾げている。「なあ日下部、このルートはいったいどうなってんのかね」 「どうなってるとは」 「お前も気づいてるとは思うけど、誰が道を整備してくれてるんだ」  しばらく言葉が出てこなかった。数秒後、あえぐように、「まったく気にもしてませんでした」 「嘘だろ。誰も気にしてなかったのかよ」  改めて周りを見渡してみる。尾根の直上につけられた顕著な登山道。藪は切り払われ、確固たる踏み跡が先へ先へとまるでベルトコンベアのように続いている。樹木には正解ルートを示す色とりどりのペナントが等間隔で巻かれ、夏の微風を受けてかすかにたなびいている。  それだけではまだ足りないとでも言うかのように、小ピークからべつの尾根へシフトするようなわかりづらい場合には、わざわざ進行方向を示す矢印の描かれた道標が、針金で木の枝にくくりつけられているという要介護ぶりだった。  信じられないことに、わたしはこれらの人工物を所与のものとして受け入れていたのだ。「確かにおかしいですね。こんな奥地まで観光客がくるなんて話は聞かないし」 「ここ数十世紀のあいだ、誰も通ってないほうに全財産賭けてもいいぜ、あたしは」 「ぼくも同感です」 「それじゃ胴元が破産しちまう」姉さんはからからと笑ったあと、すぐに不審そうな顔に戻った。「賭けが成立しなくなったところで、ひとつまじめに考えてみないか」  わたしたちはしばし、無言で歩いた。そのあいだにもあざ笑うかのように、色鮮やかなペナントを何個も目にした。心強い登山者の味方だと思っていた布きれが、急になにか邪悪なしろものに見えてくる。 「どういう意図があるのかわかりませんけど、このルートが何者かの手によって切り拓かれたことだけは事実ですよね。まずそれはいいですか」  しぶしぶといった調子で彼女はうなずいた。「いいよ」 「彼または彼女がいかに誠心誠意込めて藪を切り払ってくれたとしても、登山者にとって理想的な状態が数十世紀も続くはずはない。これもいいですか」  いまや姉さんの眉間には深くしわが寄っている。「いいよ」 「かといってこのルートが定期的に整備されてるなんてことは絶対にない。ぼくたち量子人はふつう、1マイクロメートルだって標高を上げたがりませんからね。やるに事欠いて登山道の整備なんてことを誰であれ、するはずがない」 「……だろうな」 「でも案外、この問題の謎は浅いと思いますね」 「焦らすなよ名探偵」  木の根の這った段差を慎重に越える。登り始めた当初は雑に歩いていたが、根岸が転んでからいやでも気を配らざるをえない。「波動関数の収束ですよ」  しばらく会話が途切れた。やがて姉さんが唐突に立ち止まった。「そうか! この山脈はまるまる処女地だってことだな」 「なんです急に。大声張り上げて」前を歩く二人が引き返してきて、疑問符を頭の上に浮かべている。「ヤマヒルでも出ましたか」 「この登山道がなんでこんなに歩きやすくなってるか、お前らは不思議に思わないほどおつむが足りないらしいな」  根岸と二宮は顔を見合わせ、目をしばたいた。二宮が代表で風にひるがえっているペナントを手に取り、畏怖に駆られたようにつぶやいた。「こいつを誰が準備したかってことでありますね、かすみさん」 「やっと気づいたか。じゃあ聞くぞ、いったい誰がそんなお節介をやったんだろうな」 「自分たち量子人でないことだけは確かです」 「その通り。もしかしたらあたしらをここに運んできた創造主かもしれない」興奮を鎮めるように一息ついた。「誰が整備したにせよ、それはとてつもなくむかしのはずだ」 「なるほど、それで処女地ってわけですか」根岸が訳知り顔で割り込んだ。「それほどむかしに整備された登山道ができたてほやほやなはずがない」 「ただし、誰もその状態を観測してないなら話はべつだ」わたしが締めくくった。 「自分の理解が正しいか自信がないのですが、つまりこういうことでありますか。①未踏エリアなら波動関数は未収束である。②①であるならば、われわれ量子人の波動関数最適化によってほとんど劣化していない登山道に現実を固定できる。③したがって当山脈は処女地である」  三人がいっせいにうなずいた。 「俺たちが栄えあるフロンティアだってことはわかりましたけどね、だからどうだってんです。そんなこたとっくにわかってたでしょうが」 「誰かがなんらかの明確な意図を持って登山道を整備したんだよ、根岸」汗を拭い、水筒から水を補給した。「この先にはなにかがある。きっとある」  われわれ無謀極まる登山隊は畏怖の念に駆られ、ごくりと息を呑んだ。  鬱蒼と茂る樹林帯に阻まれて〈クォンタム山〉本峰はもちろん見えない。だがわたしにはそれが傲然とそびえたっている姿を、確かに幻視したのだった。
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