5 量子進化論談義

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5 量子進化論談義

 山行はたまに肝を冷やす場面こそあったものの、おおむね順調に進んだ。  けがの回数で筆頭を走るのは根岸だった。これは量子人の感覚からすると意外だ。とかく命の危機にさらされた経験のないわれわれのこと、一度そうした目に遭ったのならなんとしても二度めを避けようとする――つまりもっと周りに気を配るはずなのだから。  やつは木の根っこに足を引っかけて地べたにヘッドスライディングしたり、藪を突っ切る際に棘の生えたイバラにすねを切り裂かれたり、その他無数の事故に遭った。  いっぽうわたしは無傷を維持し、姉さんは一度だけ張り出した丈の低い枝に頭をぶつけた。二宮ははた目にも注意深く歩いていたのが功を奏したのか、これも無傷だった(とはいえすんでのところで回避した危険は無数にあった)。  こうした事故事例を話し合いたいとみんなが切実に願っていたおり、2,300メートル地点のコルに詰め上げた瞬間、忽然と山小屋が現れたのには驚かされた。登山隊は一も二もなく引き戸を開けて飛び込み、ザックを土間にごろりと放り出し、上り框にだらしなくへたり込んだ。  そのまましばらく誰も動かなかった。空腹という生理現象がもしなかったら、そのまま誰も立ち上がらなかっただろう。 「見てください、缶詰めがこんなに!」食料調達係を買って出た根岸の両手には、種々雑多なメニューがこぼれ出さんばかりだ。「いい加減インスタントラーメンに飽き飽きしてたんですよね」 「サー、賞味期限は大丈夫なんでありますか」  途端にさっと青ざめた。おそるおそるツナ缶のラベルを検めている。「とくに記載はないな」 「じゃ、大丈夫なんだろ」姉さんはためらいなくプルトップをつまんでふたを剥がし、スプーンで中身を半分ほどもすくって口へ放り込んだ。 「どうです、姉さん」  いまにも痙攣してぶっ倒れるのではないかと心配するわたしをよそに、当の本人はもぐもぐと口を動かすばかりだ。やがてごくりと景気のよい音を立てて飲み下した。 「日下部も案外潔癖症なんだな。まだ〈事象の固定点〉から800メートルも下にいるんだぜ。缶詰めの中身くらい最適化できなくてどうするよ」  彼女の言う通りだ。たとえ製造年月日が2万年ほど前であっても、それでもなお品質の保たれた波動関数事象を収束させればよいだけの話なのだ。それなら毎日息を吸うよりも無意識にやっている。  そうとわかればあとはもう、雪崩みたいなものだった。われ先にと貯蔵場所に全員が駆け込み、略奪が始まった。好みの缶詰めをめぐって醜い争いがひとくさり勃発したけれども、貯蔵量が推定消費量をはるかに上回っていることが判明してからは急速に下火となった。  なかでも人気だったのはビタミン類を補給できる野菜缶だった(メンバーのあいだではこのままじゃ壊血病になるぞというジョークがささやかれていたが、おりしもそれがジョークでなくなり始めた時候だった)。次点で肉類と魚介類、あとは団子状態である。  次々に製造年月日不明の缶詰めが封切られ、めいめいの腹のなかへと押し込められた。近くを流れる細い沢から十分に取水したあと、貯蔵されていた緑茶の葉がぶんどられ、湯水のごとく消費された。  腹もくちてまぶたの重くなった面々がシュラフをザックから引っ張り出すのを億劫がっていると、二等兵がふかふかの布団と毛布をどこからかくすねてきて、その問題にはけりがついた。  登山隊は実に10日ぶりにまともな寝床にありつき、思うさま惰眠をむさぼったのである。  翌日(もしかしたらまる一日寝過ごして翌々日だったかもしれない)、めいめいは申し合わせたようにお昼すぎに起床した。  窓から射し込む光がどうも妙なのである。下界のそれより際立って赤っぽく、その相違に敏感に反応して叩き起こされたという顛末だった(約1名、どうやら敏感でないらしいうるさがたの青年のみ、二等兵に起こされてやっと目を覚ましたのだが)。 「おかしいな。もう陽が傾いてやがる」外に偵察へいっていた姉さんがしきりに首を傾げている。「いまは盛夏だろ。なんでこう西日になってんだ」  眠い目をこすりながらも全員が小屋の外へ這い出し、コルからの景色を眺めた。  眼前には昨日這い上がってきた谷が、見事なV字に切れ込んでいる。もう少し上に目を転じると、いままで越えてきた山々が折り重なるようにはるか向こうまで続いる。たったの10日でこれほど奥地にまできてしまうのだから、量子人の脚力にはまったく驚かされる。  が、それよりも度肝を抜くのが景色の色味である。明らかに赤みがかっているのだ。まるで季節を無視して太陽が独自路線を採用したかのように。  不気味な色合いに誰もが言葉を失っているなか、たまりかねたようすで根岸が口を切った。「標高を上げるとなんで明暗境界線の位置が変わるんです」 「緯度を上げるか下げるかしたってんなら、あたしも納得するんだけどね」女傑は口をすぼめてうなっている。 「色、か」二宮がぼそりとつぶやいた。敬語ではないので独り言なのだろう。 「なにか思いついたのかい、二等兵」 「これは急速に太陽が沈もうとしてるのではなくて、単に標高が上がると赤っぽくなる、ということなのではないでしょうか」  わたしは意図せず快哉を叫んでいた。「赤方偏移か!」 「そう、それです。〈地表〉は波動関数の収束と発散の入り混じった、いわば因果律の崩壊した世界です。自分たちは普段意識しないけれども、過去と未来を自由に行き来してるのに等しい」ちらりとこちらのようすをうかがう。「自分の言いたいことは伝わってるでありますか」 「〈地表〉は因果律を破壊するためにすさまじい高エネルギー状態になってるが、なんらかの理由で――たぶんコスト削減だろうが――上にいけばいくほどエネルギー準位は下がる。青から赤へとドップラー効果が推移して、ぼくたちには景色が赤っぽく見えるようになる」 「仮にそうだとするとだな」盗み聞きしていたらしく、姉さんがくちばしを突っ込んできた。「結局惑星の中心に量子場を発生させるなにかがあるっていう主流派の勝ちになるのか」 「量子場なんて怪しげなものじゃなく、高エネルギーを発生させるしろものだと書き換えてもいいですけどね」と寝坊した青年。「べらぼうにでっかい加速器あたりでしょうな」 「サー、それだと結局観測問題が残るであります。波動関数を生存第一義にするよう最適化してるのは誰なんでありますか」 「もちろんぼくたち量子人だよ」わたしは断言した。 「いやに自信満々だな。証拠でもあるのかい、名探偵」 「姉さん、この山小屋に辿り着くまで各自が大なり小なりけがをしたでしょう。あのばらつきがなぜ発生したかを考えればいいんですよ」  三人がいっせいに黙り込んだ。根岸は目玉をぐるりと回し、二宮は一生懸命考え込んでいるふりをし、かすみさんは肩をすくめた。代表して女傑が促した。「降参だ、続けなよ」 「ばらつきがあるということは、おのおのの最適化能力に差異があるという意味になりますね。もし機械かなにかが一律に決めてるのなら、根岸だけがやたらにひどい目に遭うのはフェアじゃない」 「俺がそのありがたい管理装置に嫌われてるだけかもしれない」  彼の皮肉は無視した。「もし脳のわずかな構造のちがいが波動関数を収束させる効率に影響するのなら、それは突き詰めれば遺伝子の塩基配列に還元できる」 「そうは言うけど日下部さん、俺は生まれてこのかた15世紀、下じゃ危ない目に遭ったためしはありませんぜ」 「〈地表〉は十分な高エネルギー状態だから、わずかな変異は波動関数の波に埋もれるんだろう。欠陥は均されて目に見えなくなる――ちょうどメンデル遺伝の優性と劣性みたいに」 「待てよ日下部。それじゃ創始者はわざとほかのやつより死にやすい遺伝子をコードして、そいつを埋め込んだってのか」そっと根岸の肩に手を置いた。「なんのためにだ。いやがらせにしちゃ悪質すぎるぜ」 「おそらく想定外だったんでしょう。まさか遺伝子が突然変異するなんて夢にも思ってなかったはずですよ」 「いまあんたが言ってるのは、量子最適化遺伝子が変異するかどうかって意味ですかね」 「その通りだ、根岸」 「遺伝子の突然変異なんて日常的に起きてるでしょうが。紫外線とかDNAの複製ミスとかで」 「だろうな。そして有害な変異は最適化によって取り除かれてるはずだと」  三人は異論なしといったようすでうなずいた。 「でももし、最適化のルールがぼくらの思ってるより雑だとしたら」 「雑?」姉さんの声音には苛立ちが混じり始めている。 「中立突然変異ですよ。自然淘汰は個体に直接影響する変異についてのみ、それがよい場合にせよ悪い場合にせよ、いっさい見逃さない。前者にはのちの世代への伝播という報酬を、後者には死という罰を与える」 「いっぽう特定のアミノ酸生成を阻害しない中立的な変異は、表向き個体になんの変化ももたらさないので見逃される。これで合ってますか、サー」 「それが続くといつの間にやら内部的な遺伝子コードがかなり変わってしまう。無害な変異でも蓄積すれば時限爆弾になりうる。たったひとつの置換で代謝異常の起きる崖っぷちに立たされてたなんてことになりかねない」 「やっとわかったぜ。量子最適化は万能じゃないんだな。自然淘汰みたいに大ざっぱな審査しかやらないわけだ」 「〈地表〉じゃ多少の変異があっても即座に影響がないので表向き、俺みたいな欠陥品もみんなと同じように長生きできるってわけですか」やつの表情は目に見えて青ざめ始めた。「最適化が聞いて呆れるね、まったく」  根岸の捨て台詞を最後に、重苦しい沈黙が訪れた。われわれ量子人たちはこれまで、平均4,000年を誇る長命を所与のものとして暮らしてきた。それがいまや、非常にもろい土台の上に建てられた手抜き工事であることがわかったのだ。 「それがなんだってんです」台詞とは裏腹に、青年の声は震えていた。「俺たちのなかには死にやすいやつがいるかもしれない。でも〈地表〉にいればメトセラでいられるんだ。そうビビるこたないでしょうが」 「いや、それはちがうぞ」姉さんは目を浅く閉じている。「もし量子最適化中立説が正しいのなら、世代を重ねるごとに遺伝子は劣化していくはずだ。あたしらは世代交代がおそろしく遅いから当面は大丈夫だろうけど、いつか最適化システムそのものが機能しない欠陥品しか生まれなくなる日がくる」 「しかし、なぜ欠陥遺伝子が蓄積するんでありますか。いくらシステムが雑だといっても波動関数を収束させられないほどの欠陥を見逃すとは思えません」 「その通り。本来有害遺伝子の排除は自然淘汰の役割だ。それは厳しい野生状態の動物にのみ適用される。創始者はぼくたち量子人をなに不自由のない文明社会にどっぷり浸かった状態からスタートさせた。競争のない環境では自然淘汰が本領を発揮できないんだ。ほかでもない文明によって保護されてるからね」  苛立ちを隠そうともせず、青年が声を張り上げた。「すると、要するにどういうことなんです」 「量子最適化と自然淘汰。二人の厳正な裁判官の目をすり抜ける道があって、ぼくらはそこへずるずると引き込まれてるのさ」  太陽が徐々に傾くにつれ、ますます景色は赤みを帯びていく。わたしの耳もとで宇宙がせせら笑っているような気がした。どうあがこうとエントロピー増大の法則からは逃れられないのだと。
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