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6 青年たちの離脱
3日間山小屋で停滞したのち、われわれは心機一転進み始めた。
個々人で多寡はあれど、四人はもはや死を極端には恐れなくなっていた。それは本質的にすぐとなりに存在しているのだ。いままで気づかなかっただけで。
2,500メートル地点まで到達したところで、いっせいに全員の足が止まった。事前に地形図で確認していた通り、難所中の難所に着いたのだ。600メートルにもおよぶビッグウォールである。
「ねえみなさん、俺たちはもう十分スリルを味わった。そうでしょうが」
「帰りたいんなら止めはせんぞ」
「日下部さん、俺を臆病者の見本みたいに扱うのはやめてもらいたいね」
首が痛くなるほど見上げても、垂壁の終点は見えない。蒼穹の空へと一直線に伸び、はるか上空で一点に収束している。目測で平均斜度は75度、ホールドは潤沢にあるようだが一歩踏み外せば真っ逆さまである。
これを登ろうとする量子人は世界広しといえどもわれわれ四人しかいまい。標高も〈事象の固定点〉に肉薄している。墜落につながる不用意なアクションを最適化システムが救済してくれる可能性は低いだろう。
「正味な話、ここからは遊びの域を超えてると思う」みんなの顔を順繰りに見回した。「覚悟のあるメンバーだけでいきたい。抜けたい人は挙手」
誰もそうしなかった。
「言葉を変えます。いきたい人は挙手」
三人とも美しい挙手をやってのけた。
「ここまできて引き返すなんざ、男じゃないね」根岸は早くもハーネスを装着している。
「自分は遠征に参加すると決めたとき、とっくに覚悟はできてたであります」二宮はさっと敬礼した。
「山頂にこのルートを切り拓いたやつのメッセージがきっとあるはずだろ。あたしはそいつを見たいね」かすみさんは指の骨をわざとらしく鳴らしている。
「決まりだ、いきましょう」
* * *
ビッグウォール攻略には隔時登攀を採用するのが通例である。30メートル程度の岩場なら強引にフリーソロで登ってしまえるのだが、600メートルとなると話はべつだ。
いままで辿ってきた登山道なら不注意で転んでも膝をすりむく程度ですんだ。ところが垂直に近い壁ではつまらないミスをひとつ犯すだけで、即死亡事故につながる。
そうはいっても600メートルもの岩場をノーミスでクリアしろというのは非常に理不尽な要求だろう。本人のミスでなくてもスタンスが崩れるとか強風にあおられるとか、クライマーを地獄へ叩き落そうと手ぐすねを引く外部要因には事欠かないのだから。
そこで考え出されたのがスタカットである。概要は次の通り。二人一組でペアを作り、最初に道を切り拓く側(トップ)と下でロープを支える側(ビレイヤー)に役割を分担する。
トップとビレイヤーはともにハーネスを装着し、50メートルロープでお互いを結びつける。トップは登りながら、適宜プロテクションと呼ばれる支点を作る。ピトンやボルトを岩の隙間に突き刺したものをそう呼ぶ。
トップはプロテクションを作ったらそれにカラビナをかけ、後ろにしたがえているロープを通す。こうすることにより、仮に墜落しても最後に作った支点で止まるというしくみだ(したがって命を守るものという意味を込めてプロテクションと呼ばれている)。
下で控えるビレイヤーはトップが墜落したときに備え、いつでもロープを引けるように待機している。トップがへまをやらかすとロープは上へと猛烈な勢いで引っ張られるが、この流れを止めるためにATCと呼ばれるビレイデバイスをロープに噛ませておく。人力とATCの生み出す摩擦で墜落を止める道理だ。
トップはルートを見極めながらプロテクションを取り、少しでもましなレストポイントを探しながら登っていく。ロープが目いっぱい張るかよさそうな足場が見つかったらそこに陣取り、セルフビレイを取る。
トップが体勢を整えたら、今度はビレイヤーの番だ。二番手はトップが切り拓いてくれたルートをなぞるだけだし、なにより上から常時ロープで確保されているため(トップロープ)、仮に墜落してもほとんど距離はゼロですむ(したがってトップは熟達者のお役目となるわけだ)。
ビレイヤーは登りながら、プロテクションにかけられたカラビナを回収し、次の登攀でリサイクルできるようギアラックへと移し替えていく。カラビナは無限にあるわけではないし、仮に無限個のカラビナがあったとしても携帯は不可能だ。少しでも装備を軽くして登攀難易度を下げるのが、安全なクライミングへの第一歩である。
ビレイヤーが無事トップのいるレストポイントに到達したら、それでようやく1ピッチ終了だ。これをくり返して徐々にだが確実に標高を稼ぐ。クライミングがプレイヤーの命を守るため、いかに面倒な手順を踏んでいるかご理解いただけただろう。
クライミングの難しいところは、墜落係数と支点作りの手間を天秤にかけながら登らなければならない点にある。
墜落係数とは文字通り、不運にも落下したクライマーにかかる衝撃だと思えばよい。落下距離が大きければ大きいほどインパクトも比例して上昇するのは直感的に理解できるだろう。
したがって死を遠ざけたいのなら、打ち込める限りのピトンをスラブに穿ち、いつ墜落してもよいようにしたくなるのは人情である。とはいえピトンは例によって無限個にあるわけではないし、仮にあったとしても携帯は不可能だ。
それに支点作りは打ち込めそうなリスがなければ非常に難渋する。命を優先するあまり登攀スピードに差し触り、クライム中に夜になってしまっては本末転倒だろう。
墜落係数と支点作りの手間を考えると、1ピッチにつき6か所程度が理想的なプロテクション数である。これはもちろん目安であって、どうしても遵守する必要はない。地形的に難しければ、支点なしで数十メートルをランナウェイするのも戦術のひとつだ。
クライミングには以上説明したように、途方もなく面倒で無視したくなるほど細かい決まりが満載されている。これらを一糸乱れぬコンビネーションでやらねばならないのだから、重量に打ち克って標高を上げるという行為がいかに難しいのかわかるというものだろう。
われわれ四人は山小屋をベースキャンプとし、テントやらシュラフやらの荷物をデポ、食料とクライミングギアのみの軽装備で臨んだ。
* * *
2ピッチまでは順調だった。わたしは根岸と、姉さんは二宮とペアを組んでいるのだが、基本的にはわたしたち日下部・根岸ペアが先陣を切っていた。
いままでも十分すぎるほどの整備がなされていたのだから、この壁にも適宜ピトンが打ってあるのではないかと期待していけない理由はなかった。
ところが見通しは甘かった。岩壁にはルートを指し示す丸印や残置ギアのたぐいはいっさい見られなかったのである。登山隊はいちからのクライミングルート開拓を余儀なくされたのだ。
2ピッチめの終了点は50センチメートルもあるレストポイントだったので、全員が壁にもたれて身体を休めるスペースがあった。
「なんで急にルートがなくなっちまったんだと思う」かすみさんがいまいましげにうなった。「道を通したやつらの意地悪かね」
「いや、きっと作ったはずですよ」
「だったらなんで残置スリングのひとつも見かけないんだ」
首の凝りをほぐし、根岸に合図する。いつでも準備万端だ。「2,600メートルにもなれば、いよいよ量子的な重ね合わせがなくなり始めるんでしょう。もう最適化の力をもってしても『開拓時そのままのルート』なんて都合のいい事象を現実化できないんだと思います」
「てことは」おそるおそる根岸が下をのぞき込んだ。「落ちたら死ぬんですね、俺たち」
これ以上議論が紛糾しないうちに、わたしはよさそうなホールドに手をかけた。岩壁は比較的しっかりしており、掴んだ先からぼろぼろ崩れたりしないのだけは助かる。次に反対の手。身体を腕力で押し上げ、スタンスを見つけて足をかける。このように一度に動かしてよいのは手足のうち一本のみ。三点支持はクライミングの基本である。
順調に3ピッチめをこなしていると、20メートルを超えたあたりで壁が信じられないほどのっぺりとしているのに気づいた。リスがないのだ。これではプロテクションを作れない。
「おーい日下部さん、進んでないけどなにかあったの」
「支点を打ち込めそうなリスがない」
しばらく間があってから、「いけそうですか」
「ランナウェイするさ」
みずからを奮い立たせ、数センチメートルレベルのホールドに指の先を引っかける。両手はある程度自由に使えるいっぽう、登山靴を履いた足はどうしても細かいホールドに弱い。ソールのつま先を壁に押しつけ、摩擦力で登っていくしかない。
2メートル、5メートル、10メートル、13メートル! まだリスは見つからない。途端にどっと冷や汗が噴き出してきた。よせばいいのに墜落係数を計算せずにいられない。
13×2/33=0.78
かなり大きい。いま落ちたらさっき作った支点は耐えられるだろうか。そもそも根岸がちゃんとビレイしてくれるのかも怪しい。
雑念を振り払う。プロテクションは耐えるし、根岸はビレイヤーとしての責務を果たす。そもそもそんな心配をするまでもなく、落ちなければよい。簡単だ。
17メートル、20メートル。プロテクションを作れないのはしかたないにしても、この調子でずっと壁がつるつるだったらどうする。1ピッチ終わってロープにテンションがかかっているにもかかわらず、壁に張りついて途方に暮れる破目になるとしたら。
頭が真っ白になった。意志に反して足が動こうとしない。動くには動くのだが、マリオネットに操られているみたいにガタガタ震えるばかりなのだ。
「止まってますけど大丈夫ですか!」
強がりを吐こうとしたのだが、恐怖で声が出ない。
「おーい日下部、生きてんのか!」
姉さんの台詞が冗談に聞こえない。
「リーダー、状況をお知らせください!」
できればそうするさ。まずは体勢を整えなければ。チョークバックに手を突っ込んで汗まみれの皮膚を乾燥させる。大きく深呼吸して足の震えを止める。目を閉じ、1回、2回、3回。よし!
祈りが通じたのか、10メートルほど先にテラスらしき段差が大きく張り出しているのが見えてきた。申しぶんないレストポイントだ。25メートル、28メートル、あと少し。
テラスに手が届き、身体を持ち上げようとしたところでロープがぴんと張った。1ピッチぶんを使い切ったのだ。下に向かって怒鳴る。「できる限りロープをくり出してくれ!」
間もなくわずかにたるみができた。慎重に両腕をテラスに乗せ、ゆっくりと身体を持ち上げる。次の瞬間、息をあえがせて1メートルはあろうかという特大テラスにだらしなく転がっていた。
「大丈夫なんですか、生きてますか!」
「生きてるよ」蚊の鳴くような声になってしまった。息を吸い込んで、「セルフビレイ完了。上がってきていいぞ」
「なんで教えてくれなかったんです」テラスに詰め上げた根岸は顔面蒼白で、気の毒なくらい怯えていた。「30メートルのランナウェイがあるなんて寝耳に水ですよ」
「セカンドはトップロープでビレイされっぱなしなんだから、大丈夫だと思ってさ」
「心がまえってもんがいるでしょうが!」
「落ち着けよ。覚悟は決まってたんじゃなかったのか」
「登る前の純真無垢な俺の覚悟は決まってましたがね」セルフビレイを取り、ぐったりとテラスに座り込んだ。「いまの俺は目が覚めたようです」
「おーい日下部」姉さんの怒鳴り声だ。「ここどうやって登ったんだ。プロテクションがぜんぜんないぞ!」
「ランナウェイしました」
死のような沈黙ののち、盛大に悪態を吐いたのが聞こえた。
やがて顔面蒼白のかすみさんがテラスからひょっこり顔を出す。「てめえ、もっとましなライン開拓できなかったのかよ」
この台詞は心外だ。「ぼくのルートが気に入らないなら、姉さんが登りながら最適なやつを見つければよかったんですよ」
彼女の表情からみるみる険が取れていった。ばつが悪そうに頭を掻いて、「すまん日下部。お前にばっかり負担かけちまってたな」
スタカットペアにおけるトップの責任は重大だが、この遠征のように二ペアが登る場合には当然、どちらかが後発の組になる。二番手のトップはルート開拓を一番手のトップに任せてしまえるし、プロテクションも設置してあるはずだから仕事量は相対的に少なくなる。わたしは根岸だけじゃなく、後発の二人の命をも間接的に預かっているわけだ。
「冗談じゃなく、ぼくのルートがまずければ意図的に逸れてくださいよ」
「そうするべきなんだろうけど、どうしても開拓されたルートがあるとなあ」
「サー!」下から二宮の絶叫。「プロテクションをどこに隠したんでありますか」
「ピーチクさえずってる暇があったらとっとと登ってこい」
「しかしかすみさん、それでは墜落したときの衝撃が――」
「ちょっとは口を閉じてられねえのか。てめえはセカンドだろうが!」
観念したらしく、それっきり泣き言は聞こえてこなくなった。
不安になるほど長い時間が経過したあと、ゆっくりと死相の浮いた二等兵がテラスに顔を出した。「3世紀は寿命が縮んだであります」
根岸が手を貸して引っ張り上げている。その顔は柄にもなく深刻そうだ。空を見上げてため息をつき、ゆっくりとかぶりを振った。「こんなのがあと何回あるんでしょうね」
二等兵はしきりに足首をひねっている。「たいへん言いにくいんですが、自分は早まった決断をした可能性を否定しきれないであります」
「はっきり言えよ。ビビってんだろお前ら」
姉さんの挑発は逆効果だった。二人は臆面もなくうなずいたのである。
「で、臆病者のお二人さんはどうすんだ。尻尾を巻いて逃げ出すのかい」
またもや逆効果だった。二人の青年は意に介さず、エイト環を取り出してロープにセットしたのである。エイト環は懸垂下降の際、ロープが一気に滑っていかないよう制動を効かせるギアだ。彼らはエスケープするつもりなのだ。
「おいおい、ここまできて本気でやめちまうのか」
「お二人はさっきの難所を越えたとき、死を覚悟しなかったんでありますか」二等兵は着々と準備を進めながらつぶやいている。「自分は生まれて初めて、死を実感したんであります」
「その坊主の言う通りですよ」根岸にいたってはすでに準備万端整っており、あとは支点にロープを通して下降するばかりだった。「あんたらは怖くないんですか。こんなの正気の沙汰じゃない」
呆然とするわたしと姉さんをよそに、二人は電光石火の速さで準備を完了した。わたしはようやく彼らが本気なのだと思い知らされた。手を差し出してみる。二人とも握手には応じてくれた。
「例の缶詰め小屋で待ってます。ヤバくなったら引き返すのも勇気ですよ」
根岸は岩壁伝いに颯爽と懸垂下降していった。
「ご武運を。きっとお二人ならやり遂げると信じてるであります」
二宮は岩壁伝いに颯爽と懸垂下降していった。
残されたわたしたちは二人が見えなくなるまで見送った。霧のかかった谷底へと消える瞬間、どちらかが大きく手を振っているのに気づく。やがてそれも見えなくなった。
わたしたちは顔を見合わせ、どちらからでもなくうなずき合った。余分になったロープをザックにしまい込み、お互いを連結する。
残り450メートル弱。まだまだこれからだ。
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