7 山頂へ

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7 山頂へ

 13ピッチめのど真ん中。陽は傾き始め、焦燥を感じる時間帯。それまでにも幾多の困難がわたしたちを待ち受けていたが(ルンゼ、オフウィドス、チムニー、融け残った雪壁、その他いろいろ)、ここにきて特大の厄介者が立ちはだかった。前傾壁(オーバーハング)である。よりにもよって残り1ピッチというところで。  根岸たちがリタイアして日下部・森下ペアになってからは、トップへの過剰負担を軽減するため順繰りで交代していたのだが、まるで狙ったかのようにわたしの番でこんなのに出くわすとはまったくツイてない。 「おーいどうした。なにかトラブルか」怒鳴りすぎて姉さんの声はかすれている。 「お化けみたいなハングがあります!」  かすかに悪態が聞こえてきた。「迂回できそうか」  壁にしがみついたまま、ぐるりと上を見回してみた。視界に入っているエリアは一様に出っ張っており、ちょっとやそっとのトラバースで回避できるしろものじゃない。「無理です。トラバースだけでロープが足りなくなっちまう」 「……正面突破しかないな。いけそうか」 「やるしかないでしょうが」  オーバーハングを乗り越えるには人工登攀(エイドクライミング)が有効だ。谷側に大きく突出した壁を登る場合、ちょっとした工夫がいる。  まず出っ張っている天井の部分にボルトを打ち込む。ボルトはしっかり噛めば岩の内部でエキスパンションし、がっちり食い込むので人間の体重くらいなら支えられる。  ボルトを設置したらそれにアブミをかけて、これを第一の足場とする。アブミとは携帯用のはしごだと思ってもらえばよい。ナイロンテープを組み合わせて作った簡素なものだが、対ハング用決戦兵器としてこれ以上の適任者はいないだろう。  アブミを足場にし、身体が揺れないよう気を配りながら次のボルトを打ち込む。アブミをかけ替えて第二の足場とし、さらに遠くの天井部分にボルトを打つ。いま乗り越えようとしているハングは張り出した部分が5メートル以上もある化け物級ではあるが、3、4本も真上にボルトを打てば十分越えられるだろう。  ハングで難しいのはこのあたりまでで、いったん乗り越してしまえば垂直の壁が少しばかり続くだけで、次第に傾斜は緩くなっていく。垂直エリアで足場がなければピトンなりボルトなりを交互に打ち込んで直接乗ってしまえばよい(ボルト・ラダー)。ハングの上に出たらよさそうなスタンスを見つけて1ピッチ終了。  頭ではわかっているものの、それをぶっつけ本番で実践するとなると話はべつだ。  まずハングの天井にボルトを打つと簡単に言うが、その体勢がどんなだか想像してみてほしい。垂直に近い壁にしがみつきながら、首が痛くなるほど傾けっぱなしのままジャンピングと呼ばれる錐で頭上の岩に穴を空け、慎重にボルトを打ち込むのである。決して易しい仕事じゃない。  やっと1本めが終わった。ギアラックに吊るしていたアブミを手探りで掴み、落とさないよう細心の注意を払ってボルトに引っかける。よし、かかった。あるかなきかのスタンスから足を移し替えるのが難しい。勢いをつけすぎるとアブミが大きく揺れて体勢を崩す。  加減したつもりが不十分だったらしく、案の定大揺れに揺れた。死ぬ思いでしがみつき、揺れが収まるのを待つ。気が遠くなりそうだ。頭を振って正気を保ち、次のボルト設置に取りかかる。次の動作に移るまでがおそろしく億劫だ。まったく動かないまま安全な状態でいたい。それでも進むしかない。  ジャンピングで穴を空けているとき、岩くずが目に入った(誓って言うがこんな不愉快な経験は人生初だった)。激痛が走り、たまらず目を閉じる。涙がダムの決壊よろしくあふれてくる。こすりたい衝動に駆られるも、両手両足すべてがみずからの命を保つために完全予約制となっているのに気づき、断念する。  涙と一緒に岩くずが流れるのを待つしかない。目が見えないのはかえって恐怖心をごまかしてくれると強がった矢先、自分がハングの下で宙吊りになっている図がありありと脳裏に浮かんだ。途端に両足が震えはじめる。歯の根が合わない。手に力が入らない。 「日下部、大丈夫か! やばそうなら引き返してこい」  姉さんの声援に勇気を得たのか、嘘みたいに震えが止まった。そうだ、わたしのルート取り如何で彼女の命運も決まるのだ。しっかりしろ!  2つめも設置し終えた。もうひとつのアブミをギアラックから取り外し、かける。2回めだけあって乗り移るのにさほどの困難は感じなかった。驚くほどスムーズにいった。  3つめに取りかかっている最中、図ったように強風が吹きつけてきた。まるで最高の舞台で活躍すべく、いままで手控えていたかのようだ。アブミが冗談のように揺れ、手近のホールドにしがみついた拍子にボルトを取り落した。ボルトは霧の底へと吸い込まれていき、すぐに見えなくなった。  耐風姿勢でじっとこらえていると、頭のなかであらゆる弱音がこだまし始めた。600メートルのビッグウォール攻略なんてどだい無理な話だったのだ。標高3,000メートル地点。もう波動関数はほとんど一方通行だろう。風に負けて墜落しようものならそのままそれが現実になる。  そう悟った瞬間、不意に弱音が消し飛び、頭のなかがクリアになった。  自分の一挙手一投足が現実になる。なんという単純で魅力的な世界だろうか!  わたしはいままで〈地表〉というママのおっぱいに吸いついたまま、20世紀近くも暮らしてきた。それは偽りの生だったのだ。厳密な意味での自由意志が存在しない世界。あらゆるむちゃくちゃが許容され、量子人にとって最善なように自動調整される世界。何十万年ものあいだ変化のない死んだ世界。  それらはどこかよその宇宙へと退いていき、いまあるのはわたしと手強いオーバーハングのみとなった。知覚が研ぎ澄まされている。いまたわむれにアブミから足をずらせば、真っ逆さまに墜落するだろう。否、墜落できるのである。  じわじわと身内から熱いものがこみ上げてくる。これが本当の生なのだ。自分の行動に全責任を持つ。それは信じがたいほど不安定であり――同時に魅力的であった。  気づくとハングを乗り越していた。視界を覆っていたいやらしい岩壁が取っ払われ、一面赤方偏移によって赤みを帯びた夕陽に照らされている。  そしてそこは山頂でもあった。縦横8メートル程度しかない猫の額。鋭く天を衝く〈クォンタム山〉の頂。因果律が一方向にしか流れない〈事象の固定点〉。  予想を裏切り、創始者からのメッセージらしきものは見受けられない。太古からのお告げを記したありがたい石版くらいあってもよさそうなものだ。それどころか山名と標高を記したプレートすらない。周りにここより高い山がないという事実だけが、現在地を〈クォンタム山〉山頂であると間接的に証明しているだけだ。 「おーい日下部、着いたのか」  姉さんの怒鳴り声でわれに返り、ビレイ体勢に入る。「上がってきていいですよ」  もう永遠に登ってこないのではないかと思い始めたころ、ひょっこり女傑が山頂に顔を出した。「ここが山頂……なのか」 「おそらくね」手を貸してやり、ゆっくりと引っ張り上げる。「なんにもありゃしませんけどね」  8メートル四方の面積に二人陣取ると、けっこう狭く感じるものだ。完全に平坦なわけでもなく、大小取り混ぜて無数の岩が転がってもいるので、まともに使えるスペースは3メートル弱程度だ。  ゆっくり感動を噛みしめたいのだが、陽はほとんど沈んでいていまにも日没する間際である。急いでシュラフを引っ張り出し、ビバーク態勢を整える。快適と言えば強がりにはなるものの、真夏なら3,000メートルの高地でもなんとかやりすごせるだろう。  心身ともに消耗が激しく、夕食の準備をするのも億劫だ。眠りに落ちたのは着替えてからシュラフに潜り込んだのとほぼ同時であった。  不意に目が覚めた。  寒さからなのか、なにかを予感したからなのか。  糊づけされたかのような目をこすり、何度もまばたきをして眠気を振り払う。  空は暗い。いや、地平線の向こうがぼんやりと明るさを増している。太陽が顔を出そうとしているのだ。  嘘みたいに頭がすっきりした。これがあのご来光なのか? 〈地表〉では雑多な建造物に阻まれてお目にかかれず、量子人である限りは生涯見られないとされている超弩級のショー。  シュラフからロケットみたいに飛び出し、背伸びをして少しでもよく見えるようにリーチを伸ばす。推定気温は一桁台。風が凪いでいるおかげで寒さはあまり感じない。  見ているあいだにも光輪が徐々にせり上がってくる。 「これが夜明け……なのか」気づくと姉さんがとなりで目を眇めていた。「あたしらはいま、太陽が顔を出すのを見てるんだな」 「あるいは量子星が自転して、〈クォンタム山〉のあるエリアが明暗境界線からはずれる瞬間とも言えますね」  彼女は答えなかった。この現象を説明するのに言葉はいらないのだ。  太陽が半分がた頭を見せたあたりで、柔らかな橙色のビームがいっせいに拡散し始めた。闇が追い払われていく。世界に色がついていく。  太陽の上昇速度はマクロ観測に引っかからないのではないかと思わせるほどにのろかった。ミリ単位でじりじりと焦らすように。このまま永遠に昇らないかのようだ。  ついにそのときは訪れた。太陽がすっかり顔を出したのだ。強烈な陽光が目を射る。まるで光合成植物になったかのように、その莫大なエネルギーを確かに感じる。  わたしは意図せず両手を広げ、目いっぱい陽光を受けられるポーズをとっていた。  彼女もそうしていた。  わたしたちはすっかり陽が昇ってからもなお数時間、その場に立ち尽くしていた。
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