クレア〜貴女に出会えて

2/34
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
「一の二」    等間隔で植えられた街路樹の葉が四月の穏やかな風の中で優しく揺れていた。近年、声高に叫ばれている環境問題。森林伐採による砂漠化は進み、地球上から次々と自然の緑が奪われているというニュースを耳にする。それでもこの街路樹たちが立派にここで生きていることを目の当たりにすると、嬉しいという気持ちが強く、テレビ画面を通して見たことのある、伐採される森たちの姿が薄らいでいってしまう。それは所詮自分が狭い世界で暮らし、狭い世界のことしか知らないちっぽけな存在だからだろうか……。  若干芽生えた卑屈な気持ちを吹き抜ける風に解き放つように両腕を左右いっぱいに広げてから、龍田唯人は再び自転車のペダルをこぎ出した。生まれてから二十一年と一か月。その間にこの身をもって体験したこと、この目で見てきたもの、教わり学び積み上げてきた知識、それらがこの広い世界と比べれば、どれほど矮小なものであるかは自覚している。それでもそれらが、今の自分を形作るすべてであり、見栄を張らず等身大のまま胸を張っていればいい。何度も繰り返して思い、いつの間にか身に付いた考えが、再び自転車で走り出した唯人の胸の裡を包み込んだ。  休日以外は毎日同じように通う、勤め先までの道。よほど大荒れの天候でない限り、唯人は自宅から勤め先まで自転車で通っている。その時間はおよそ三十分程度だ。今日も自宅を出たのは‪午前七時半‬。勤め先であるスーパーマーケットの「藤倉マーケット」には‪午前八時‬過ぎには着く。藤倉マーケットの開店時間は‪午前九時‬だが、社員である唯人は、開店の約‪一時‬間前には出勤している。  小田急線の玉川学園前駅から徒歩二分の位置にある藤倉マーケット。店の裏手にある従業員専用の駐輪場に自転車を駐めた唯人は右手に嵌めた腕時計で、‪午前八時三分‬という現在の時間を確認し、ひとつ頷いてみせた。  裏口から店内に入ると、階段を駆け上がるようにして三階まであがった。従業員の更衣室は三階にあるのだ。男子更衣室の扉を開けて中に入ったが、誰もいなかった。更衣室の入り口から見て一番奥が唯人のロッカーだった。ロッカーを開けて、ハンガーに掛かったエプロンを取りだした。着替えといっても、このエプロンを身に付け、左胸にネームプレートを付ければ、それで終わる。時間にして一分もかからずに唯人は仕事スタイルへの着替えを済ませた。唯人がロッカーを閉めたと同時に、更衣室の入り口が開いた。  入ってきたのは、精肉売り場を担当している加藤洋介だった。年齢は唯人よりも三つ上の二十四歳だが、社歴は唯人の方が長く、総務係の主任として、店内のフロア全体を管轄する仕事をしている唯人の方が立場も上だった。そのためか、加藤は年下の唯人に対しても敬語を使う。当初は唯人も、「敬語なんて使わなくていいっすよ」と言っていたが、何度言っても加藤は敬語を直そうとしなかった。今では、加藤に敬語を使われることに唯人自身も慣れていた。  「おはようございます」唯人は加藤へ笑顔を向けて言った。  「おはようございます」加藤も笑顔で応じた。  敬語を使う使わないということでの行き違いはあったが、現在、二人の間にわだかまりのようなものはまったくない。加藤はそういう人なのだと唯人自身が受け止めており、真面目でそつなく仕事をこなす加藤に好感を抱いてもいた。  「今日の特売は何でしたっけ?」  「今日は火曜日だから、豚コマ三パック一〇〇〇円の日です」唯人の質問に加藤は即答した。  「そっかそっか、豚コマか。でも、豚コマって美味いっすよね。生姜焼きにしたら俺、飯三杯はいけますよ」左手を箸に見立てて飯をかけ込んで食べるような仕草をしてみせた。  「主任も好きですか。僕も豚肉が一番好きです」加藤は笑顔で頷いた。  「じゃあ、また後で、朝礼で」  「はい」  笑顔で会釈する加藤の横を通り、唯人は更衣室を出た。  一階に降りた唯人は総務室に向かった。総務係は、係長を筆頭に総勢五人。係長の下には主任が三人いる。唯人は売り場担当の主任で、他に発注担当の主任と経理担当の主任がいて、総務係全体の雑務を担当するパートタイマーの女性が一人いる。  総務室のドアを開けて中を覗くと、中は薄闇に包まれ、まだ誰も出勤していなかった。唯人は部屋の電気を付けてから、自分の机に座った。総務係にはそれぞれ専用の机とパソコンが与えられている。席に着いた唯人はパソコンのスイッチを入れた。メールを確認したが新たなメールは一件も届いていなかった。  「さてと、売り場でも見てこようかな」独りごちながら立ち上がろうとすると後ろから声をかけられた。  「おう、唯人、今日も早いな」  振り向いた唯人の視線の先には、総務係長である笹野がスーツ姿で立っていた。笹野は三十代後半、短身痩躯だが眼光は鋭い。どことなく狼に似ていて、皆からも「狼」と渾名されていた。そんな風貌ゆえに怒ったら怖そうなのだが、笹野は怒るだけでなく、普段から感情をほとんど表に出さない男だった。  「おはようございます」唯人はぺこりと頭を下げた。  「おはよう」笹野は表情を緩ませることもなく、淡々と返してきた。  そんな笹野に最初は多少なりとも戸惑いを覚えた唯人であったが、加藤の敬語と同様に今ではもう慣れた。これが笹野なのだと思える程度の時間が二人の間には流れていた。  「ちょっと俺、売り場を見てきます」そう言って、笹野の横を通り抜け、部屋を出ようとしたところで呼び止められた。唯人は振り返り、ドアを背にして笹野と向き合った。  「今日から、レジ係に新しいパートが来るらしい。まあ仕事はレジ係に任せておけばいいが、その……なんだ……、まあ人間関係ってやつだ。その辺、ちょっと気にしてやってくれ」  笹野にしては珍しく含みのある言い方だった。唯人にはそれが少し気になったが、特に問い質すこともなく、「分かりました」と頷いた。    朝礼は毎朝‪午前八時半から‬と決まっている。時間にしておよそ十分程度。総務係、レジ係、フロア係、さらには精肉売り場係、鮮魚売り場係などの係長を筆頭に各係の出勤者すべてが出席して行われる。そんな彼らを前にして挨拶するのがフロアマネージャーの雪下、その横に控えているのがサブマネージャーの堤だ。雪下の上にはもう店長と副店長しかいない。  そんな朝礼の光景であったが、今日はいつもと違った。堤の横にもう一人いる。身長一七〇センチはある堤とそれほど変わらない、女にしては長身の部類に入る姿。少し赤みがかった茶色の髪を後ろで束ねている。やや吊り上がった大きな目が印象的で、それは気の強さを連想させた。ほとんど化粧はしていないように見えるが、それでも十分に美人といえる顔立ちだった。  「今日から新しくレジ係として働いてもらうことになった、真壁綾乃さんだ」雪下が紹介し、それに続いて綾乃が少し前に出て、「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げた。少し掠れた声だった。  唯人は、頭を上げて元いた位置に戻った綾乃を見つめた。年齢は自分と同じくらいに見える。美人だなという印象を持ったが、どことなく陰があるような雰囲気も纏っている。何故だかは分からないが、漠然とそんな印象を抱いた。  「人間関係を気にしてやってくれ」という笹野の言葉を思い出す。その言葉の意味を問い質しはしなかったが、言葉を発した笹野がいつもと少し違っていたことも気になっていた。目の前に立つ笹野の後頭部を見つめる。どんな表情で彼女のことを見つめているのか。前に回って、その表情を確認したい衝動に駆られたが、それは出来なかった。  笹野の後頭部から綾乃へ目を向けた。やや伏し目がちに立っている。緊張しているのだろうか。挨拶が済んだなら、こちら側に行くように指示を出せばいいのに……。そんな思いで、綾乃の隣に並ぶ雪下と堤に視線を向けた。二人とも、まるで分かっていないような顔でいる。  「駄目だ、こりゃ」唯人は心の中で毒づいた。  再び綾乃へ視線を戻した。彼女はまだ伏し目がちなままでいる。彼女の笑顔が見たいな。そんな思いが唯人の心の中に浮かんでいた。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!