大木のおおいぬ

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 むかし、むかしのことです。  一人の仏師が旅をしていました。  この仏師は、日々歩き通して、よい木ぎれを見つけると、それを仏の形に彫りました。  出来上がった仏像は、その木ぎれがあった場所に置かれて、道行く人の目に止まると、その穏やかな表情で、その場にいる人々にほほえみを運ぶのでした。  仏師は、幼い頃から仏を彫り続け、今や人生のほぼすべてが、仏像作りに捧げられていました。  若い頃は、ある大寺に籍を置き、裕福な者達の望む仏を彫ったりもしましたが、ある時、仏師はその大寺を出ていったきり、戻りませんでした。  それ以来、野宿をしながら、通りがかりの人々に布施を受けながら、出会った人々や寝泊まりした場所に、彫った仏像を置いてきたのです。  仏師の望みは、人々の心が救われることでした。  旅の中で、仏師は、土地を襲う疫病、不作、飢饉、争い、そういったあらゆる人間の苦しみを見てきました。  ある日、山あいを下っていた仏師は、大木の根本に腰かけました。  日は、空のてっぺんでさんさんと輝いています。  今朝、山の麓の村から旅立ち、歩き通しでした。  仏師は腰に下げた袋の中から、村人にもらったおにぎりをひとつ取り出し、食べました。  年老いた仏師は大木のかげに休みながら、ふと、あの国に行ってみようかと思い立ちました。  この山を越えた向こう側に、仏師が一度も行ったことのない国がありました。  その国は、とても賢く慈愛に満ちた王様がおさめており、争いや飢饉などのない平和な国と言われていました。  しかし、山を越えた先、この国の手前には、底の見えない深い谷がありました。  谷と谷の間が幾万も離れておりますので、橋もかけられず、またかけようという者もおりませんでした。  その国へ行った者は、数知れずおりましたが、誰一人として帰ってきませんから、この国の姿を知る者もおりませんでした。  思い立ってみると、仏師はこの国へ、今まで行ってみようとしなかったことが不思議でならないほどでした。  仏師は立ち上がり、山のてっぺんに向かって、歩き出しました。    すると、背の方で声がしました。 「たすけてください」  それは、小さなささやくような声でした。  仏師は振り返り、声の主の姿を探しました。 「助けてください」  声は聞こえども、姿は見えません。 「わたしはここです」  曲がった腰を杖で支えながら、仏師は、辺りを探しました。 「そこです、そこです」  仏師が自分の座っていた木の根本に戻ってくると、声が力強く話しかけてきました。 「わたしは、ここに閉じ込められているのです」  どうやら、声は木の根本から聞こえてくるようです。 「この木の根本にいるのかね」  仏師が大木の腹回りをなでました。 「そうです」  また、声は力なく答えました。 「お前さんは、なんだね?」  仏師が尋ねました。 「わたしはつむじ風です。そのむかし、この山のふもとを通りがかりました。村は夏の終わりでしたが、わたしは野分を運ばねばなりません。村のすみからすみまで吹いて回りました。しかし、村人は不作を恐れ、わたしをつかまえると、この大木の中へ閉じ込めてしまいました。そして、長い年月が過ぎ、わたしをここに閉じ込めたことは、忘れさられました。どうか、わたしをたすけてください」  ヒューヒューと、空を切るようなつむじ風の息づかいが聞こえました。 「だが、お前さんを助ければ、また野分がやって来て、村人たちは再び不作に苦しむであろう?」  仏師が尋ねました。 「あなたは、あの村の人々の中に、多くの病人を見なかったのですか?」  つむじ風が言いました。 「ああ、見たとも。体の節々が痛み、昼だというのに起き上れずに、ふせっている人々を」 「野分は、山や土地、植物、水、空気、それらすべての澱みを洗い流すのです。野分が来なければ、作物は失われませんが、澱みがたまっていくでしょう」  つむじ風の話を聞きながら、仏師はしばらく考えていました。  しかし、仏師は一度深く頷くと、背負った袋の中から、のみを取り出し、大木の幹にふり下ろしました。  そうして、そのまま幾日もかけて、大木から、一匹の犬を彫り出しました。  この犬は、それはそれは立派な雄犬で、その尻尾は、大木の枝から掘り出しておりましたが、後は枝と尻尾を切り離せば完成しました。  仏師は、尻尾と枝の間に、のみを打ち込もうと腕を高くかかげました。しかし、仏師の拳から、のみが落ちていきました。  胸に手を当て、仏師は痛みに顔を伏せながら、大木の根本に崩れました。 仏師がふたたび目を開けることは、ありませんでした。  仏師のかたわらで、大木の大犬はたたずんでいましたが、ブルンブルンと身震いすると、みるみる本物の犬になりました。 「わぉーん」  一声ないて、大犬は口をめいいっぱい広げ、仏師をペロリと飲み込み、腹におさめました。  そして、のみを口にくわえると、自ら枝と尻尾の間に打ち立て、切り離しました。 「わぉーん」  大犬は、もぅ一度なきました。  すると、村のふもとに駆け出しました。  駆けるごとに大犬の姿は透き通り、人の目には見えなくなりました。  大犬が村につくと、ただつむじ風が村人の服や髪、体をさらって、駆け抜けていくばかりでした。  つむじ風は、村を駆け抜け、再び山へ吹きすさんでいきました。  山のてっぺんに登り、山を下って、底の見えない崖の底の底をなで回し、幾万も離れた崖の向こう側に出ていきました。  そして、その先にある誰も帰ってこない国へ、吹きわたっていきました。  おわり
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