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プロローグ1 村娘アンリ
世界の創造主サタナキアには、四柱の子神がいる。
母なる海の娘と息子。
母なる大地の娘と息子。
父神と共に世界を彩った四柱の子神は、その仕事を終えると、サタナキアからこう言われた。
「私の作ったこの小庭で、私たちの子等を見守って欲しい」
他の兄姉たちが父の言葉に忠実にうなづくなか、末子の子神は無邪気に喜んだ。
世界を作っている間中、ずっと自らの目と耳と肌で、その世界を感じてみたいと切望していたのだ。
彼は世界に降りてかたちを得た。
彼が作った〈冬〉の季節を象徴する、雪色の髪の若者。
しんしんと白雪の降り積もる冬の季節に、彼は旅に出掛けた。
ああ、雪はこれほどに冷たく、凍えさせるものだったのか。
己の作品である冬に包まれながら、彼は出来たばかりの脚で一歩、白い大地を踏みしめる。
それが後に冬の魔術師と呼ばれるカナリアの、長い長い旅と生の始まりだった。
⌘
ひどい嵐の過ぎ去った朝に、見慣れないものが川岸に流れ着くことがある。
折れた白い木の枝とか、色付き石みたいに綺麗な透き通った器とか、見たことのない動物の死骸とか。
だからアンリがそれを見つけた時、死んでいるのだと思った。
同時にいやなものを見てしまった、とも。
死体だ。
川岸に流れ着いていたものは、白髪の老人の死体だった。
よくあることではないが珍しいことでもない。
川沿いの村であれば仕方がないことだ。
死体を見つけてしまったら、大人に報告をして葬ってもらわなければいけない。
死体を放置しておけば、村に厄介な病が蔓延するかもしれないからだ。
気乗りはしないが仕方ない。アンリだって病は困る。
アンリは皮膚に触らないように気をつけながら、両肩あたりの服を掴み、ずるずると引きずって水から引き上げていった。
ふやけた皮膚が破けるのも気味が悪い。
アンリはそれを仰向けにひっくり返し、怪訝にまばたきした。
白髪の老人かと思いきや、老けていなかったのである。
おまけに整った目鼻立ちをしている。
泥で汚れてはいるが、十人が十人とも美形だと評するだろう。
思わずまじまじと顔を覗き込むと、何の前触れもなく目の前の両眼がパッと開いた。
アンリは動転して悲鳴をあげた。
「驚かせてすまない」
死体は死体ではなかったのである。
だったらどうしてピクリともせず川辺でいき倒れていたのか。
無駄に驚かされて腹が立つことこの上ない。アンリは無駄が大嫌いだった。
男は長い長い、足元までありそうな白髪を引きずりながら、億劫そうに起き上がる。
それからうーんと両腕を上げて伸びをした。
どうやら寝ていた様子である。なんて人騒がせな白髪の男だろう。
「ねえ君。ここからいちばん近い村に、案内して貰えないだろうか」
「は?」
おまけに図々しいときた。
「僕を村に……町でも都でもどこでもいいのだが、宿屋と店があるところにつれて行っておくれ。連れて行ってくれたら、君の願いごとをひとつ叶えてあげよう」
なにからなにまで予想外で、アンリはさらに眉間を寄せる。
なぜこんな見ず知らずの人間に、これほどまでに調子を崩されなければならないのか。
目をすがめ、目の前の男を上から下までじろじろ眺める。
若白髪で気の毒だが、こんなに髪を伸ばして、女みたいな顔の男、年齢不詳、いき倒れ。
不審者を村に連れて行ったところで、泊めてくれる宿屋はあるだろうか。
でも。
「本当に、なんでも願いを叶えてくれるのか?」
アンリは白髪の男を睨んだ。どうしても叶えてほしい、切実な願い事があったからだ。
嘘ならばわかる。
嘘であれば身ぐるみ剥いで走って逃げよう。
男はしばらくの間、じっとアンリを見つめ返した。まつ毛まで白い。
その奥の緑色の両眼が、嵌め込まれた宝石みたいに綺麗だった。
「なるほど。君の父上が病気なのだね」
「え」
何を言われたのかわからなかった。
あまりにもあっさりと、その男はアンリの願い事を言い当ててしまった。
治せるよ、と彼はこともなげに言う。
「君の父上の病を治してあげよう。正確には、治すという表現は適切ではないが……願い事はそれでいいだろうか」
「医者も死ぬっていった病気だぞ」
「治せるとも」
「嘘じゃないだろうな!」
「嘘をつくのなら、何でも叶えるだなんて馬鹿げたことなど言わないだろう」
たしかにそうだ。外見の胡散臭さはどうしようもないが、男は嘘を言っていない。
本当に病を治せるか、そうでなければ本気で病を治せると信じこんでいるだけかもしれないけれど。
人間は弱いんだな、とアンリは切々と実感した。
信じると裏切られるからもう二度と信じないと心に決めていたのに、希望を目の前にすると、どうしてもそれに縋りつきたくなってしまう。
たとえそれが、蜘蛛の糸のように細く頼りないものであったとしても。
「……お前、本性は悪魔じゃないのか。見返りにあたしの魂を差し出せとか、言わないだろうな」
滲む涙を誤魔化すために苦し紛れにそういうと、白髪の男は吹き出して笑った。
「交渉成立かな。それでは、よろしくお嬢さん」
アンリは男が差し出した手を渋々握り返した。
水に浸かっていたからか、やけに冷たい手のひらだった。
男はとにかく目を引いた。
アンリはそれをどうにかしないとろくろく道も歩けないと思った。
それ、というのは当然、長い長い白髪のことである。
髪は男の足元に引きずるほど長かった。
男の背がアンリの父より高いのに、である。
人通りの少ない川沿いですれ違う人間は、みんな呆気にとられ、指差しくすくすと笑ってすれ違って行った。
恥ずかしいったらない。
「おい、その髪なんとかしろ」
「なんとかとは?」
「短く縛るなり隠すなりしろってんだよ」
「ああ」
男は今気づいたとでも言うように、振り返って己の髪を少し撫でる。
「髪紐をなくしてしまってね」
「髪紐? そんなの、なんだっていいだろう。てめえの着物のすそでも破ったらいい」
「縛るだけならばそれでもいいかもしれない。ただ、僕の髪はまとめておくと魔力が篭ってろくなことにならないから、それを防ぐ特別な髪紐が必要なんだ。封印具の一種でね」
どんな髪だ、切っちまえよ、と言いかけたが飲み込む。
変人にいちいち突っかかっていては、いつまでたっても家に着かない。
「へえ、特別な髪紐ね。だったら縛らなくていいからさ、外套でも被っててよ、とりあえずは」
「こんな晴れの日に、風もないのにフードなど被っていたらまるで不審者じゃないか。君は面白いね」
「……それはどうも」
がまん、がまん。これも父のためだ。
どれほど腹が立とうとも、こいつを村に連れて行く。そして父の病を治してもらう。
その目的を果たすまではけして負けるものか。
己の苛立ちごときで、父の命を助ける機会を棒に振るわけにはいかない。
男は長い髪をくるりくるりと両手でたぐり、巻き上げて、そのまま襟元から服の中にしまった。
背中のあたりに大量の髪の毛が収まっていることになる。
なんだか見ているだけで背筋がもぞもぞしてくる。気色悪い事この上ない。
最後に不自然に膨らんだ背中を覆うように外套を肩にかけて、男はアンリを振り返った。
男だか女だかわからない顔だ。
「これでいいだろうか」
「……まあ、マシにはなったか」
白髪は白髪だが、異様な長さが見えないぶん、先程よりはましだろう。
はあ、と諦めのため息を吐き、アンリは前を向いて再び歩き始めた。
言われるがまま素直に言うことを聞いてくれるのだから、もうこれ以上文句は言うまい。
父のように体がぼろぼろになっても、もう休んでくれと泣きついても働きに出て行って、少しも話を聞いてくれないよりずっといい。
髪をしまわせると、人目はずいぶん気にならなくなった。
そうしてふたりは歩き続け、アンリは己の家に男を招き入れた。
アンリの家は、村の外れに佇む木材を切り出し組み立てた小さな一軒家だった。
小窓がはめられたドアを開けると、吊るされた鈴がりぃんと涼しい音を立てる。
「父さん、起きてる?」
家を突っ切り一番おくの部屋へ向かう。
白髪の男は頭を低くして入口をくぐると、おとなしくアンリについて歩く。
突き当たりのドアを開けると、まず大窓があった。
その下据え置かれたベッドには、病のために痩せた父、ヨセフが上体を起こしてアンリを見ていた。
「お前、また何も言わずに出かけて。こんな朝早くに……」
低く静かな声がぷつりと途切れる。
無言の理由は問うまでもなく、娘の背後に現れた怪しげな人物に他ならない。
「アンリ、おまえ……」
「あー、父さん、この人はね。なんていうか、すごく説明しにくいんだけど」
「……早すぎる。おはえはまだ十五だぞ」
「は?」
「それともなんだ、まさか手を出されたのか! この野郎」
「はぁ? 違うよ父さん、全然ちがう。何言ってんの?」
男親は娘に寄り付く男の気配に敏感だった。
一見性別不詳の白髪の人物を一瞬で男とみなし、アンリを心配して顔色を変えている。
アンリは今にも寝床から起き上がりそうな父親の肩を押さえ、ばかばかしい勘違いに笑いを堪える。
「仲の良い親子なのだね」
アンリが振り返ると、白髪の男は奇妙な表情を浮かべていた。
目を細め、口元に仄かな笑みを浮かべている。
慈しみや優しさの表情だった。
どうしてあったばかりの自分達にそんな顔を向けるのか。
そんな顔を見せるこの男は何故か、少し痛々しく見える。
彼はその場に、王に仕える騎士のように跪いた。
ヨセフをまっすぐに見据え、彼は滑らかに述べる。
「僕は運命の巡り合わせでお嬢さんと出会い、あなたの病を治しに来ました。あなたの命を長らえることを、お許し頂けるでしょうか」
ヨセフは他人に跪かれたことなどなかったし、そんな奇妙な許しを求められたこともなかった。
困惑して言葉を失い、とりあえず立ち上がってもらおうと手を差し出して、ヨセフは男に名前を訊ねる。
男はその問いに、カナンという名で旅をしております、と答えた。
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