一 白い空気

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一 白い空気

「この泥棒!いいから出しなさいよ」 「お母様。私ではありません」 「嘘おっしゃい。こうしてくれるわ」  金切り声の母に突き飛ばされた清子(きよこ)は床に倒れた。肩で息する母は彼女を見下ろしていた。 「お前が羨ましそうにいつも見ていたのは知っていたんだよ。さあ、早く出しなさい」 「お許し下さい。私は何も知りません」  そう言って床に伏せた清子の横を妹の優子(ゆうこ)が通った。項垂れる姉を嘲るように嬉しそうに見下ろしていた。 「お母様。お姉様が何をしたの」  土下座の姉は古い(かすり)の着物。反して妹は朱に白い大花の鮮やかな着物姿で微笑んだ。母、貞子(さだこ)は呆れた顔を次女に見せた。 「私のはハンドバッグがないのよ。清子が盗んだのよ」 「ハンドバッグ?あら、もしかしてこれのこと?」  背からバッグを出した優子は、貞子は目を丸くした。 「ごめんなさい。お母様。お友達とお出かけするのに黙って借りてしまったの」 「まあ優子だったの?だったら構わないわ」  母は気にするなと次女の肩を抱いた。そして唇を切った長女を疎ましそうに見下ろした。 「まったく。惨めったらしいわね。いつまでそうしているつもり?さっさと支度をおし」 「申し訳ございません」  低く謝ると清子は部屋を下がった。まだ洗濯物が残っていた彼女は洗濯室に戻り、冷たい水でゴシゴシと家族の服を洗い出した。  雪国の一月。水は冷たかった。  時は大正時代。まだ雪が残る北海道函館は文明開化の花が開く港町。北の玄関は物流の発展場。異人館や西洋文化が街を彩っていた。この地に構える伊知地家は元華族の名家である。顔の左の目元に青痣が広がる長女の清子は、疎まれて育った。  使用人扱いの彼女は白いマスクで顔半分を覆い仕事に励んでいた。こうして洗濯が済んだ清子は、窓側の部屋に服を干した。窓からの真っ白な庭の景色を見ながら洗った洗濯物を干し終えた清子は、ふと松の木を眺めていると、ここに凧が飛び込んできた。 「すいませーん。取りに行っても良いですか」  塀の向こうから聞こえた子供達の元気な声に、清子は思わず返事をした。 「いいえ。こちらからお持ちします。勝手口で待ってくださいね」  庭とはいえこの自宅の敷地には他人を入れられない清子は、半纏を着て長靴を履いた。そして除雪していない庭を進み、枝に絡まった凧を助けると、勝手口まで向かった。そして戸をそっと開けた。顔を出さずに凧だけを差し出した。 「どうぞ、これを」 「ありがとうございます。おい、行くぞ」  奪うように受け取った子供達は走り去った。しかし、戸を閉める時、帰り際の言葉が清子の胸に刺さった。 「今の優しい女の人は優子さんかな」 「違うだろう。お化けの方だよ」  無邪気に笑う子供達の声が残酷に冬の空気の中、やけに澄んで響いていた。 ……お化けか。そうかもね……  顔を隠すようにマスクで覆っている清子は、もう流す涙もなく、冷たく白い羽が舞い降りた庭を歩いた。体に着いた雪を払わず、ただ静かに部屋に戻って行った。  部屋に戻った清子はこの日、早朝に掃除を済ませてあった。一通り家事を終えたこの午前中は妹の優子は女学校に出かけている。父は仕事に出かけ、母は奥の部屋で休んでいる。いつもは外出など許されぬ清子であるが、この日は週に一度、養安寺に行く日であった。唯一の楽しみのこの時間は雪が散っていたが、、着物の上に道行を羽織った彼女は襟元から頭をマフラーで覆い、目だけを出した格好で出かけた。  誰の足跡も無い白い道が続いていた。彼女は心静かに寺まで歩いていった。 「こんにちは」 「おお。清子さん。お疲れ様でございます」  養安寺の和尚は今日も笑顔で出迎えてくれた。華族であった伊知地家には古く伝わる慣しの儀式の礼がある。これは用意が大変なこともあり最近は週に一度だけ、この寺に赴き祈る事で済ませることになっている。今までは清子の祖母が執り行っていたが、二年前に亡くなっている。その後面倒な行事を一人で引き受けている清子は、この寺では心を安堵させていた。  必死に祈るいつもの御堂(おどう)で吐息の白くさせた清子は板間の仏様を見ていた。心静かに御供物(おそなえもの)を手向けて本日も儀式は終わった。この後、清子は和室に移動した。 「こんにちは。清子さん」 「奥様。こんにちは」  寺の住職の奥方は、笑顔で清子のために座布団を広げた。暖かい部屋の座卓の上には本とお菓子が乗っていた。優しい笑みの彼女は、清子を誘った。 「どうぞおかけになって。今日は英語でしたね」 「はい。前回のノートはこれです」 「どれどれ」  和服姿の奥方は老眼鏡をしっかりかけた。他には誰もいない和室。清子はこの時はマスクを外した。晒した顔には部屋の火鉢は暖かかった。  十七歳の清子は、顔の痣を恥じる両親の意向で学校に通わせてもらずにいた。伊知地家のこの儀式の前任者である清子の亡き祖母から事情を聞いていた住職の奥方は、今はもう成人した息子達の教科書を使い、清子に勉強を教えていた。  奥方の和津は函館では有名な遺愛学院女学校卒業の学歴を持つ才女である。慈愛の愛を深く持つ彼女は娘がいないこともあり、素直な清子を可愛がってくれた。  やがて宿題のノートを提出した清子は、目の前の新聞をじっと見ていた。 「ああ、どうぞ読んで構いませんよ。清子さんはお家にいる時間が長いでしょう?新聞にはね。色々なことが書いてあって面白いのよ」  奥方は教科書以外に家計簿や家庭の医学など、自分の知識を清子に授けていた。この日は勉強として二人で新聞を読んだ。  事件や政治。他に遠くの異国アメリカの出来事が書いてある記事に清子は、心驚かせていた。若い彼女のキラキラした瞳を見た奥方はフッと微笑んだ。 「清子さん。新聞はね、事件の記事が目を引くけど、この広告とか。あとは株式や円相場も重要ですよ」 「円相場。アメリカのドルの話ですね」  興味津々の清子は、株式欄を食い入るように見つめた。女学校を出ていた奥方は寺に嫁いだと言うのに、若い頃は外国に憧れていた。その影響で未だに異国の文化に詳しかった。この日の勉強はそろばんで円相場の計算をした。  養安寺で過ごす時間は自宅にいるよりも生きているような気持ちになる彼女の幸せな時はあっという間に過ぎていくのだった。  やがて清子は家に帰った。もらった新聞を大切にしまうと、また家事をするのだった。  翌日の部屋の奥。一人の静かな時間を過ごしていた清子は、家事を終えた今の時間を寂しくもあるが気を使わず自由に過ごしていた。  女学校に通う妹はそれは華やかで美しい自慢の娘である。それに反し自分は醜い青い痣がある顔である。疎まれても仕方の無い身を嘆くのは、とうに卒業した。今は嫁にもいけないこの自分の将来を真剣に考えていた。学校も通っていないため仕事に就くのは難しい清子であるが、わずかに身につけた教養で身を立てようと考えていた。  この日の清子は奥方から頂いた着物の仕立ての内職をしていた。清子は将来に向けて手に職をつけようと必死に針を進めていた。  そんな昼下がりの午後、清子に来客が来たので母が呼びに来た。 「お前。また着物を縫っていたのかい」 「頼まれたので」  体格の良い母は、眉間にしわを寄せ清子の手元を見ていた。清子は針を片付け、仕事を一旦止めた。 「いいから早くおし。顔の覆いをして、その顔を決して出すんじゃ無いよ」 「はい」  いつものような母の叱責。しかし清子には母の声が珍しく緊張しているように聞こえた。清子は白い三角巾で鼻から下を覆い、頭の後ろで結び、そして客のお茶を出すために台所に立った。  ガス代でお湯を沸かす清子であったが、鉄瓶をかけると北向きの台所が暖かく感じてきた。  この間に夕食の支度をしようと割烹着を来た清子であるが、今度は優子が呼びにきた。 「遅いじゃ無いの、何をぐずぐずしているのよ」 「ごめんなさい。優子ちゃん。カステラとこれを持っていって」 「わかっているわよ」  決して人前に出ることはない清子。こんな彼女が用意した紅茶のセットを優子は奪うように持っていった。  しんとした台所で一人の清子は、これで出番は終わったと思いジャガイモの皮を剥き出していた。しかし、また優子は顔を出した。 「お姉様。こっちにいらして」 「私が?でもお母様が」 「いいから、こっちに来なさいよ」  怒鳴り出す優子に呼ばれた清子は、割烹着を脱ぎおずおずと応接間にやってきた。彼女が部屋に入るとそこには父と叔母がソファに座っていた。 「ほら。こっちでいいじゃないの兄さん。優子を出すには惜しいわ」 「そうだな。おい、清子。お前に縁談だ」 「私にですか?」  驚く清子は思わず大きな声を出したが、優子がニヤニヤと笑った。 「お姉様にお似合いのお相手よ。良かったわね」 「お父様。これは一体どういうことですか」  結婚など無縁だと思っていた清子は、驚きの目で腕を組む父を見つめた。父はスッと目を伏せた。 「お相手の岩倉様は、我が家の娘を御所(ごしょもう)との事だ。最初は優子にしようと思ったが、ここはお前が行け」 「でも、結婚なんて」  拒否ではなく驚きで出た言葉は清子に、母が彼女の頬を打った。鬼の形相の母親に打たれて切った唇のせいか、清子の白いマスクが朱に染まった。そんな清子を無視し、貞子は義理の妹に詫びた。 「口答えするなんて!育ててやった恩も忘れて。申し訳ありません、清子!お前も謝りなさい」 「すみませんでした。叔母様」  床に手をつき平伏す清子を庇うように優子は微笑んだ。 「叔母様。私からも謝ります。姉の無礼をお許しください。これからよく言って聞かせますので」  そんな中、ソファに座り腕を組んでいた父の正也(まさや)がやっと口を開いた。 「お前達。それくらいにしておきなさい。清子は見合いに行くのだから」  父親の無言の圧は、顔に傷をつけてはならぬ、というものだった。この父の心配は清子への愛情ではない。顔に傷をつけたせいで見合いが失敗になるという保身の心配であった。この無情な仕打ちを慣れていたつもりの清子であるが、心にぽっかり開いた穴に、冷たい風が吹いていた。 ……私は要らない娘だもの。そのための結婚なんだわ……  両親は自分の幸せを望んでいるのではなく、ただの厄介払いと清子は思っていた。その証拠に自分の傷も心配せず父はお茶を飲んでいた。その隣に座る父の姉も気だるそうに時計を見た。 「では兄さん。岩倉さんにはそのようにお伝えするわね」  帰る叔母を応接間で清子が頭を下げる中、母の貞子と優子が玄関まで見送りをした。帰り際、叔母は見合いの日に迎えに来ると言い帰っていった。そして部屋に戻った母の貞子が部屋を出ようとした正也に尋ねた。 「でもあなた。清子がいなくなったら家の事はどうするのですか?」 「……清子の代わり等どうとでもなる。とにかく、そういうことだ」  家長である父の命令は絶対。この一言で清子は岩倉家に見合いに行くことになった。父が退室した部屋には貞子と優子が残っていた。  すると優子が眉を釣り上げ、食器をお盆に乗せている清子を見た。 「良かったじゃないの。お姉様のような化け物でも気にならない人で」  含みのある物言いの優子は、縁談相手の情報を知っている口調であった。思わず清子は尋ねた。 「優子ちゃんは岩倉様のお話を聞いたの?」 「ええ。でもあんたなんかに教えてあげる義理はないわ」  ここで母が意地悪く加えた。 「清子。お前に選ぶ権利があると思っているのかい」 「いいえ?そこまでは」  清子は、ただ相手がどんな人が知りたかっただけだった。だそれだけだった。しかし母は清子は蔑視で声を上げた。 「思い違いも甚だしい……それよりも夕食の支度をしなさい」  母も優子も相手の詳しい話を知っている顔だった。しかし清子には何も教えてくれなかった。清子が知ったのは相手の名前、岩倉朔弥(いわくらさくや)と言う名前だけだった。 ◇◇◇  一日を終えた一人部屋の清子の部屋は四畳半。元は女中が使っていた小部屋である。窓ガラスが凍る北向きの部屋に許されたのは鳥籠ほどの大きさの練炭ストーブだけだった。あかぎれの手の清子は冷たい布団をそばに暖を取っていた。 ……私が、結婚……  自分の容姿に全く自信のない清子は、結婚には無縁だと思っていた。それ以前に、自分を見ると相手が怖がるので人に会わないようにしていた彼女はとても戸惑っていた。 ……お父様は、優子ちゃんじゃなくて、私に行けと言ったわ……  おそらく、相手の人は歳が上とか後妻なのかもしれないと清子は思った。醜い自分でも良いという相手の場合、男性側になんらかの悪条件がある可能性と思われた。それ以外に自分を求める理由が清子には分からずにいた。 ……でも。考えても仕方がないことよね……  自分の意思など意味のない今の立場は、悩んでも全く無である。清子はこの家では要らない娘であり、いるだけで邪魔なのである。いつかは出て行く運命の娘であった。  清子は布団に横になった。凍る窓ガラスのもようは氷のバラのように綺麗だった。恐ろしいほどの静寂な夜。雪が降っているからかもしれないと思った。  不安な夜は真っ暗で、清子は想いを必死に抑えた。そして唯一暖かい湯たんぽの布団に入った。 ◇◇◇ 「清子さんが岩倉家にお嫁に?それはまた急ね」 「奥様は岩倉さんを知っているのですか」 「ええ。噂ですけどね」  見合いを聞かされた翌日の養安寺で、お参りを済ませたいつもの勉強の和室の清子は、不安な夜を終え奥方に打ち明けていた。驚いている奥方は饅頭を出しながら岩倉家について知っている事を教えてくれた。 「岩倉の社長さん。つまりお見合い相手のお父様ね。この方は一代で築いた実業家でやり手ですよ。成り上がり者だという方もいるでしょうね」 「成功している人なのですね。でもどうしてうちにお見合いの話がきたのでしょうか」  不安そうな清子に奥方は温かいお茶を進めた。 「どうぞ。あのね清子さん。伊知地家は元華族ですもの。お家柄で言えば遜色ないわよ」 「それにしても。私などが行って良いでしょうか」  じっと湯気を見める清子は不安で堪らない目をしていた。奥方は静かに口を開いた。 「……清子さん。あなたはもっと自信を持っていいのよ」  奥方は立ち上がると障子を開けた。午後の二月の雪は解け始めていた。 「確かに政略結婚になるかもしれないけれど、これも御縁ですよ」 「御縁、ですか」  自身も親の勧めで嫁いだ夫人はにこりと笑った。 「そう。『袖振(そでふ)り合うも多生(たしょう)(えん)』と言ってね。どんな小さな出会いも大切にしなさい、というありがたい意味よ。それにね。その方が嫌だったら。あなたは悪態をつけばいいのよ。そしたら帰されるもの」 しかし。清子は俯いた。 「でも。私は家でも邪魔者ですもの。父には逆らえません」  家にも居場所がない清子はハラハラと涙を流した。この想いに触れた奥方は障子を閉めた。 「……じゃあその時は、尼さんになってうちに来なさい。大丈夫、清子さんなら」 「奥様」  実の母から疎まれている清子は、この深い愛にどっと涙が出た。奥方はそっと清子を抱きしめた。 「清子さん。不安でしょうけど、まずはお見合い相手に会ってご覧なさい。自分の運命に向かって」 「はい……奥様。ありがとうございます。いつも……」  抱き合う二人の目には涙が光っていた。  こうして背を押された清子は、見合いに心を定めていた。どんな相手でも、運命を受け入れようと。  そして見合い当日。父の指示で母がどこからかもらってきた古い紬の着物を清子は身につけた。そしていつものように紫の襟巻きで頭と顔半分を覆った。澄んだ目だけが出ている顔の清子。そんな清子に反し、毛皮のコートで華美に着飾った叔母の案内で清子は岩倉家にやってきた。  西洋異人館が並ぶ函館の元町は石畳の坂の町である。雪が融けたばかりの街路樹の桜はまだ蕾の状態だった。  海が見える基坂(もとえざか)の途中の一本道に入った住宅街には、見かけは質素であるが綺麗に整備された和風屋敷がった。表札には「岩倉」の表札を見た叔母は、目を釣り上げて清子に向かった。 「良い事?清子。挨拶は私がするから、お前は何も話すんじゃ無いわよ」 「はい」 「朔弥さんは家でお仕事をされているの。お前は身の回りのお世話になるわね」 「はい」  足早に歩く叔母は、まるで厄介な仕事を早く終わらせたい様子だった。こうして二人でやってきた岩倉家の門を叩くと老齢の女性が出てきた。 「まあまあ。伊知地様。ようこそ寒い中を」  白髪の品の良い和服の彼女は、笑顔で迎えてくれた。 「私は岩倉家の使用人の瀧川(たきがわ)と申します。どうぞお入りくださいませ」 「お出迎え感謝申し上げます。さ、清子」 「はい」  玄関で上着を脱ぐ際、清子は頭を覆っていた襟巻きをそっと外した。その下をすでに覆っていた白いマスクの顔で、彼女は叔母とともに廊下の奥へと進んだ。 先を歩く瀧川は振り返った。 「あいにく。朔弥様は今しがたお出かけになってしまって」 「そうですか。私共は時間通りに参ったのですが」  やがて通された客間に、叔母はそう返答したが清子は俯き押し黙っていた。西洋式の客間は狭いが暖かく素敵だった。少し調度品が少ない気がしたが、裕福な暮らしが見て取れていた。叔母は苛立ちを隠さず老使用人に向かった。 「朔弥様はどちらへ?いつ頃お戻りなのですか」 「少しの間お待ちいただけないでしょうか」 「でも」  部屋の時計に溜め息の叔母に対し、ここで清子は静かに答えた。 「……叔母様。私はお待ちしています」 「そう。それもそうね。これはお前のお見合いだもの」  醜い姪と一緒にされるのも迷惑と言わんばかりの叔母は、そう言うと清子を置いて帰ってしまった。一人残された清子は、部屋の柱時計が鳴り響く客間で、ひたすら知らぬ相手を待っていた。 ……それにしても遅いわ。今日、伺う約束をしていたはずなのに。  相手がどこまで出かけたかは聞けずじまいの清子。そんな待つだけの部屋のテーブルには新聞があった。清子はついこれを読んでいた。 清子はこれに夢中になっていたが、かれこれ三時間が経った。長時間待たせていることを申し訳なくなったようで、使用人は二度目のお茶を出した。 「お待たせして申し訳ございません。いかがしましょうか。伊知地様」  冷めた茶を下げる瀧川は、ソファに硬く座る清子は瀧川を見つめた。 「お邪魔でなければ、このまま待たせていただけないでしょか」 「お家の方が心配なさるのと思いますが」  新しいお茶をくれた瀧川に、清子は言葉をこぼした。 「いいえ。そのようなことはありません。それよりも挨拶をしたいと思います、これは、お約束ですから」  まるで自分に言い聞かせるように話す清子に対し、瀧川は小さく会釈した。 「かしこまりました。では」  瀧川はそう言うと部屋を出た為、また清子は一人になった。時計がチクタクなる部屋は暖炉のおかげで暖かった。昨夜、緊張で眠れなった清子は、いつの間にかソファに眠ってしまった。 「おい、お前」 「……え」 「寝ているとは何と言うことだ」 「も、申し訳ございません!」  目の前にいた青年に力強く揺り起こされた清子。びっくりしてソファから落ちた。立っていた草色のセーター姿の彼は静かに目を伏せていた。広い肩で長い黒髪を束ねた色の白い顔の彼の、美しい顔は冷たい声だった。 「騒がしい。それで、何なのだ一体」 「何って。私はお見合いに来た」 「私はそんな話は聞いていない」 ……え?この方は……  ここで清子は気がついた。家具をなぞるように触りながら対面のソファに座った彼は、目が見えていないということに。そんな彼は静かに座った。清子は胸がドキドキしていたが、意を決した。 「恐れ入りますが、私は確かに父にそう言われて今日、ここに参りました」  震える声の清子に対し、彼は目を伏せていた。 「うちの父がそう申したかもしれないが、私は嫁をもらう気はない」 「……そうですか」 ……やっぱり。私なんかをもらってくれる人がいるはずがないもの。しかもこんな立派なお屋敷の殿方が……  どこか納得した清子は、スッと立ち上がった。 「それなら仕方がありません。お断りされると言うことで、父に申しておきます」 「それでは困るのだ。お前が断ったことにしてくれ。これで……頼む」  足を組んでいた彼はそう言うとズボンのポケットから封筒を出した。テーブルの上に置かれた封筒には、その膨らみからお金が入っているように見えた。 「これは?」 「ただとは言わぬ。それを持って今すぐ出て行ってくれ」  あっさり話すこの男性が冷たいのは声だけではなかった。思わず身が固まる清子に彼は追い討ちを掛けた。 「それでは足りぬか。まだ支度をするか」 「要りません」    清子はやっとそう返事をした。彼は眉間に皺を寄せた。 「なんだと」 「……私からはお断りできません。どうかあなた様からお断りしてください」  清子は彼がソファの肘掛けに手をやんわり置いているその手の下を、恐る恐るお金の封筒を押し入れた。これに気がついたのか、彼はビクと反応した。 「お願いします。どうか」  清子は頭を下げた。やっと振り絞ったが彼女の声は震えた。しかし彼はこの悲しみを無情に斬った。 「できぬと申しておるのだ、さあ、それを持って……帰れ!」  彼は封筒を清子に投げつけた。この時、驚きで倒れた清子は、暖炉に頭をぶつけてしまった。 「痛……」  目の前には紙幣が溢れた様子が見えた。彼は暖炉に頭をぶつけた清子の異変に気がついてくれなかった。清子は、じわと涙が出てきた。この物音に瀧川が入ってきた。 「大きな音がしましたが、まあ?伊知地様」 「瀧川。お客様のお帰りだ」  彼はそう憮然な顔で言い部屋から出ていった。床に座り、こめかみを押さえ茫然とする清子に瀧川は申し訳なさそうに歩み寄った。 「ぶつけたのですか?血が出ているようですね。今、手当てをしましょう」 「……ご迷惑をおかけました」  清子の痛むのは心だった。見合い相手の彼の怒りの声が意味するのは、見合いの前に破談だということに間違いない。 ……やっぱり、私に縁談なんて、あり得なかったのね……  思うだけ無駄の幸せな夢を思った清子は、いけないのは期待した自分だと反省した。そんな清子を心配そうに瀧川は見つめた。 「伊知地様。お怪我を看ますので、この顔の覆いを取りますね」 「はい、どうぞ」  顔の布を取った清子に、瀧川は一瞬、目が動いた。が、その後はぶつけた額を箇所を綿で拭いてくれた。その間の清子は呆然としていた。 ……お父様に、どう申し開きをしたら良いの……  思い悩んでいた清子の痛いのは心だった。それは見合いをせよと言った父の指示通りできなかったことである。相手は話も聞いてくれなかった状況を、なんと父に話せば良いのだろうと思った清子は、目の前が真っ暗になっていた。  そして。手当てをしてくれた瀧川は、何も言わず顔の覆いを返してくれた。 二月の寒い夕刻を案じた瀧川は帰りの人力車を手配すると言ってくれたが、清子はこれを丁重に断り、一人、歩き帰って行った。  白い結晶が美しく舞い落ちる海を見ながら、期待と不安を胸に抱きながら清子がやって来たこの八幡坂であったが、帰りの清子はそれ以上に悲しい気持ちで冷たい足跡を付けて坂を下っていた。  美しく光る青い海はこんな遠くからも白波が見えた。(いか)れる父がいるあの家に、帰れない清子にカモメの鳴き声が無常に響いていた。 ◇◇◇ 「朔弥様。伊知地様はお金を受け取らずに帰られました」 「勝手にすればいいさ」  自室で機嫌悪そうに背を向けている朔弥に瀧川は正座をした。 「もしかして。お顔もぶつけられたのでしょうか?ご本人は何でも無いとおっしゃいましたが、目の周りに痣ができていたようです」 「……本人が何でも無いと申すのだから。気にすることはない」 「でも、あの顔で帰られたら。ご家族が誤解をするかもしれませんよ」 「……」  火鉢に手を当てていた彼は、動きを止めた。瀧川はその背に話を続けた。 「そもそも。お部屋であんな長時間お待ちになった方は初めてですものね」  最初から別室にいた朔弥は、今までの見合いも全てこの方法で断っていた。その気もないのに両親が進める見合い相手を彼は頑なに拒否していた。しかし、今日だけは違った。我慢強い清子にはすっかり根負けした彼は初めて自分で姿を現し断ったのだった。そんな彼に老乳母の瀧川は追い討ちをかけ続けた。 「外は雪でございますが、お一人で帰して良かったのでしょうか」 「お前、車を呼んだのだろう」 「いえ?一人で市電で帰ると申されて」 「この寒い夜にか?……」  長時間待たせた挙句(あげく)、金をぶつけ怪我をさせた悪態の朔弥は、こんな自分がさらに嫌になりズボンの膝をぎゅうとつかんでいた。 ……あの涙声……くそ!……  悲しみを殺した彼女の涙声が頭から離れなかった朔弥は唇を噛んだ。  自分の意思とは関係無く父の命令でやってきた過去の見合い相手の女性達の、化粧のきつい匂いと自慢話は思い返してもうんざりだった。岩倉家の金目当ての彼女達は、目の不自由な自分を見た時の悲鳴に似た喪失感を彼に示していた。  これに傷付けられていた朔弥は、今日の娘にはそれがなかった事を思い返していた。 「瀧川」 「何ですか」 「あの娘を呼び戻せ」 「もういないのではないですか」 「黙って行け。足跡を辿れば良いだろう」  彼に言われ屋敷を出た瀧川はバス停にいた清子を発見した。市電はまだ来ない様子の停留所には、すっかり冷え切った清子が立っていた。  清子は瀧川の必死の願いを受け、朔弥の家にひとまず戻ってきた。岩倉家の部屋に入ったが彼の姿は見えなかった。 「岩倉様はどちらでしょうか?休憩させていただくのでお礼を言わないと」 「そう、ですね」  見合い相手に怪我をさせた娘を夜の雪道で冷えさせてしまった事を、非常に悔いているであろう若き主人を思い、瀧川は不要と説明した。 「それよりも。こんなに冷えて。さ、お風呂にどうぞ」 「そ、そこまで甘えられません!」  必死に抵抗した清子だったが、雪はどんどん降ってきた。これを見た瀧川は今夜は帰るのは危険と諭した。 「でも」 「お怪我もされているので心配です。どうか私に免じてお泊まり下さいませ。伊知地さんにはもう、連絡をしましたので」 「そう、ですか」  破談の知らせを父に話すのは気が引けていた清子は、瀧川の声に心の糸が切れた。そして瀧川の親切を受け入れた。  そして心身ともに疲れ切った清子は風呂も夕食も辞退し休ませてもらった。与えられたのは静かな客間であった。綺麗な柄のふかふかな布団で彼女は眠った。いつもの粗末なものとは異なる上質な布団に、清子はすっかり冷えた体を預けた。  足元には瀧川がくれた温かい湯たんぽがあった。 ……ああ、温かい。でも、ここにいては、いけないわ…… 雪が作った静かな夜を、枕を涙で濡らしながら、清子はいつの間にか眠った。  翌朝の清子は、高い熱で寝床から起きられずにいた。しかも昨日の額の傷がズキズキと痛んでいた。 ……でも。私は破談だもの。ここにいるわけにはいかないわ……  清子はせっかく作ってくれた朝のお粥を寝床で少し食べ、瀧川が止めるのも聞かず、彼女がお膳を下げている間、必死に布団を戻し帰り支度をした。そこに足音がした。 「入るぞ。お前、帰れることができるのか」  部屋に入ってきた朔弥は、長い髪を束ね白いセーターの上に着物を着ていた。 ……お背がこんなに高い方なのね……  近くで見ると背が高かった朔弥に清子は慌ててマスクをし、正座し彼に頭を下げた。 「はい……お世話になりました。これで帰ります」  そうは言っても力のない様子を悟った朔弥には、彼女が熱を帯びているのが伝わってきた。 ……この娘。体調不良は俺のせいなのに……なぜ、なぜそれを口にしないのだ……  小柄な彼女を見下ろす朔弥は、それが無性に悔しかった。 ……何なのだ、一体。この女は…… 「おい、手を貸せ。どこだ」 「ここです」  伸ばすと彼女からやってきた手は小さな手だった。握ったこの荒れた手は熱かった。これを掴んだ朔弥は胸を握られた想いがした。 「熱があるじゃないか。これで帰れるのか」 「はい。帰ります。それに、これ以上……甘えるわけには参りません」  手を離した吐息も苦しそうに辿々(たどたど)しい彼女の言葉を聞いた彼は、彼女を苦しめたのは全て自分のせいだと唇を噛んだ。 「他には、その顔は、痛まないのか」 「顔?顔ですか?」 「目の周りをぶつけた様だ、と瀧川が申しておったぞ」  傷を探す様に清子の頬を撫でる彼の指は優しかった。これに清子は涙が出た。 「何だ?痛むのか」  濡れた顔を指で知った朔弥はびくとした。そんな彼のために清子は静かにマスクを外した。 「違うのです。これは生まれつきで……私の顔には青い痣があるのです」 「痣……では怪我ではないのか」 「はい。痛みはありません」  ほっとする彼の表情に清子は思わず胸がどきんとした。清子の頬をなぞる彼の手を、清子はこの気持ちを包むように自らの手を重ねた。 「ご心配されたのですね。でも、もう平気です」 「ではなぜ泣く……」  自分ではなく空を彷徨う彼の視線に、清子は大きく深呼吸をした。 「私は……このような顔なので、他の人には恐ろしく見えるのです。でも怖がらない方に、初めて会えたので、つい」  嬉しくて、と言う言葉は涙で消えた。しかし涙が伝う頬に手を当てていた朔弥には言わなくても伝わった。 「そうか……わかった」 「お世話になりました」  ここで清子は、彼の手を解き帰ろうとした。が、彼はその手を離さなかった。 「え?」 「お前、名は」 「伊知地清子です」 「きよこ、とはどういう字だ」 「(きよ)らかの、清です」 「わかった、清子よ」  彼は息を整えて清子に向かった。 「まだここにいろ。熱が下がるまで寝床だ」 「でも、私は」  すると彼は手に力を込めた。 「命令だ。こんなお前を帰すわけにはいかない。さあ寝ろ」  そう冷たく言い放った彼は、部屋を出て行った。窓の外は氷柱から滴る雪解けの音がしていた。 北国の春の足音とともに清子と朔弥の出会いは始まった。 第一話「白い朝」完
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