28825人が本棚に入れています
本棚に追加
二 彼女の理由
「して先生。伊知地様のご容態はいかがでございますか」
「額の切れた傷は浅いのですぐに治るでしょう。それとあの熱は、おそらく流行りの感冒ですね」
岩倉家の客間にて心配そうに尋ねる瀧川に、清子の診察を終えた医師は淡々と説明し、黒い革鞄から薬を取り出した。
「熱冷ましの薬です。これは熱で眠れない時だけお使い下さい。この高熱は三日で下がりますので、あまり心配しないように。それよりも他がちょっと気になりますね」
「他と申しますと」
「あの娘はどうも栄養不足のようです」
清子をかかりつけ医に診察させた朔弥は黙って聞いていたが、この結果を聞いて足を組み直した。
「栄養不足?瀧川。伊知地家はそんなに困窮しているのか?」
「決してそのようなことはないと思います。ですが清子さんは確かに痩せていますね」
うっすらと明かりは見える程度の視力の朔弥は、人物の形くらいは見えていた。清子のことはぼんやりと見えるくらいで顔まではわからない彼は、医師に尋ねた。
「ところで先生。彼女の顔の痣とは何なのですか」
「本人に確認したところ、生まれつきのものですね」
「よくあることなのですか」
「……そうですね、女性に多いものです」
初めて聞く医師の説明を前に、朔弥は椅子に座り直した。
「妊娠中の母親がどこかにぶつけたせいだとか、責められることがありますが、これは遺伝によるものです。決して本人のせいでありません。その部分が青いだけです。顔や背中に多いのが特徴で原因はわかっていません」
「背であれば、他人には見えぬからな。しかし顔ならば隠せぬな」
朔弥の言葉に医師はうなづいた。
「おっしゃる通りです。ゆえにそういう方は容姿を気にして屋外に出ないことが多く、世間的にはこの症状があまり知られておりません」
「そうか。それは不憫だな」
眉を顰める朔弥の前に、瀧川が二人にお茶を出した。
「朔弥様。清子さんは今日で帰ると申されていますが、いかがなさいますか」
「そうだな……」
まだ帰宅を決めかねている朔弥は、目を伏せ腕を組み、情報として医師に訊ねた。
「先生……彼女の顔は治らないのですか」
「はい。今の医学ではそうなりますね」
「そうか」
まだ熱のある娘は帰ると聞かないが、医師の話では体調が悪いと言うことに朔弥は悩んでいた。親が勝手に決めた見合い相手がやって来るのは彼女で七番目。結婚する気がない自分はどの娘も追い返し清清していたはずだった。
……しかも栄養不足とは。確かに身が細かったな……
制しようと手首を掴んだ時、身を固くした彼女の細さを彼は思い出していた。父親の命令を異常に気にしていた清子の様子に、彼は違和感を覚えていた。ここで彼は自分でも意外な言葉が口から滑り出した。
「先生。彼女はこの家でしばらく養生させたいと思うのですが、いかがでしょう」
「この家で?確かにそれが最良ですが」
「ふふふ」
「な、何がおかしい瀧川!」
人見知りの朔弥が発した言葉に医師も眼鏡を直し驚く中、瀧川も思わず笑い声が溢れた。これに朔弥は口を尖らせ頬を真っ赤にした。彼の主治医の医師、海堂は一人真面目に考えながら答えた。
「そうですね。清子さんは夜は眠れるそうなので、この家で栄養を取っていればすぐに回復するでしょう」
これに朔弥はうなづいた。
「後は伊知地家だな。これはどう話をすれば良いものか」
若い娘を預かる良い言い訳を出さねばならない朔弥は首を傾げた。すると瀧川が声を発した。
「朔弥様。ここは『当方にて風邪を引かせてしまったので、治るまで預かりたい』で良いかと。恐れ入りますが伊知地様は、夕べ、私がご連絡した際、こちらが清子様を気に入ったと思われているご様子。ここはそれで良いかと」
「『気に入った』か。……まあ、どうでも良い。お前に任せる」
なぜ頬が熱くなるのか。なぜ心がほっとしたのか。朔弥は自分の思いも気付かずに事を進めて行った。
◇◇◇
「おい、入るぞ」
「ど、どうぞ」
布団に横になっていた清子は、朔弥を見て起き上がろうとした。布団のずれる音で彼はこれを察した。
「起きるな。寝ていろ」
「ですが」
朔弥は彼女を制し布団の傍に座った。しかし布団から体を起こした清子は、高熱の苦しさにマスク無しの素顔であった。
若い男性にこんな至近距離で顔を見せたことがない清子は、胸の鼓動が激しく思わず手を当てた。この乙女心に気付かない朔弥は語った。
「お前はまだ熱がある。治るまでこの家にいろ」
「そうは参りません。ご迷惑ですもの。午後にはお暇を」
……なんと頑固な娘だ。訳ありのくせにまだ帰るというのか……
帰ると聞かない熱を帯びたその細身の娘の心に、朔弥は苛立ち早口で命じた。
「そんな熱のまま帰せるか。それに伊知地家には連絡済みだ。大人しくしていろ」
心配を誤魔化すためか、怒ったような口調の朔弥だった。
……これ以上甘えてはいけないわ。この方に迷惑がかかるもの……
清子は高熱で頭がぼうっとしていたが、とにかくこれ以上、ここにいるわけには行かないという思いが強まった。
「岩倉様。どうか、私を帰してくださいませ」
「なぜだ」
憮然とする朔弥に対し、布団の清子は必死に訴えた。
「私は、父に。岩倉様の元に嫁ぐように言われてやってきたんです。ですが、それを果たせないのに、このように厄介になってしまって……この御恩を私は返すことができません」
「返せずとも良い」
「いいえ。父が許しません。どうか、私を帰らせてください」
帰らせてくれと懇願する清子の声は震えていた。
……ただの縁談ではないか。なぜ、そこまで……
朔弥にとっては七回目の押しかけ見合いである。相手の娘に対しても断れば済む話だと軽く思っていた。しかしこの娘は違った。父親に言われて、こんな自分に本気で嫁ぐ覚悟だったと知った。
しかし朔弥は彼女を理解しようとせず雑言を浴びせ、卑怯にも断らせようとした。自分のした酷い仕打ちを思い返した彼は、今頃は胸が苦しくなっていた。
「岩倉様。お願いします」
咽び泣きながらの懇願する清子の様子は嫌でもわかった朔弥は、なぜか迷っていた。
……本人の望み通りに帰せば済む話だ。しかし、俺は……
「大丈夫です。私、もう平気です」
「では、手を貸せ。熱いに決まっている」
ここで清子は動いた。
……帰らないと。これ以上は迷惑だもの……
額を冷やしていた氷嚢を握っていた清子は、目が不自由な彼の手に己の手を重ねた。一瞬、熱を取った清子の偽りの手。見えぬ朔弥は眉を顰めた。
「おかしい……それに氷の匂いがする」
「あ」
瀧川に借りた木綿の浴衣の清子の手を、朔弥はスッと肘まで触り、清子の二の腕まで確認した。
「やはりな。身はまだこんなに熱い。お前、私を騙そうとしたな」
「……岩倉様。本当に、私、ここにいてはいけないのです」
泣き出した清子の悲しい願いをぶつけられた朔弥の腹は決まった。
「だめだ」
「岩倉様!」
「帰りたくば、治す努力をしろ。話は……それからだ」
朔弥は部屋を後にした。今の朔弥にはここまでが精一杯だった。
◇◇◇
屋敷の自室に戻った朔弥に、秘書の近藤が声をかけた。
「専務。南洋貿易会社から返事が来ています」
「読んでくれ」
「はい」
目を瞑り机に肘をついた朔弥は報告を聞いた。岩倉朔弥は父が経営する貿易会社の実質的な社長であった。
視力が乏しい彼であるが、商才があった。秘書の近藤を使い情報を収集し、貿易のみならず、株式投資でも会社を支えていた。
人見知りもある朔弥は表には滅多に出ず、瀧川と暮らすこの岩倉家下屋敷で仕事をし、会社に指示を出す日々を過ごしていた。
独身の二十五歳でのんびり過ごしていた彼であるが、彼を支える老齢の瀧川を心配した両親は、息子に連れ添ってくれる嫁を探していた。
結婚の意思がない彼に対し、資産目当ての娘達が見合いにやってくるようになっていた。
端正な面持ちの朔弥は一見、素敵な男性である。しかし彼が目が不自由だと知ると、資産目当ての見合い相手は途端に嫌悪感を示すのであった。
これに嫌気が差していた朔弥は自分から破談にしており、今まではそれが成功していた。
……あんなに父親を怖がって。伊知地家には何かあるのか……
「専務。あの」
……栄養不足だと?あり得ない……
「もう、朔弥!おい!」
「あ?なんだって」
「なんだってって。こっちが聞きたいよ」
近藤は幼馴染である。様子がおかしい朔弥に遠慮無しに問いただした。
「すまない、ちょっと考え事を」
「もしかして。奥座敷の姫君のことかな」
「ど、どこでそれを?!」
動揺する朔弥を近藤はセルロイドの丸眼鏡を外して拭いた。
「瀧川さんから聞いたぞ?お前、見合い相手を住まわせているそうだな」
「全く。目敏いな」
首まである白いセーター。これを下にした着物姿の朔弥は頭をかきながら呟いた。
「あの娘、今までの見合い相手とはどうも様子が違うのだ」
「では、お前、とうとうその気になったのか」
「……まだよくわからん」
今はまだ清子の体調が純粋に心配な朔弥は真顔で答えた。近藤は眼鏡をかけた。
「お前がそこまで思うとは?これはいよいよ本物か」
「冷やかすな。それよりどう思う?伊知地家の令嬢が栄養不足とは解せないのだ」
「確かに。そうか伊知地家、か」
仕事を放り出した近藤は、手帳を取り出し書き始めた。
「ええと。清子嬢だな。家の事情を俺が調べてみるよ」
「頼む。他にも気になることがあるのだ」
名家の伊知地家の娘が栄養失調の謎。朔弥は他にも父親に対するあの動揺などの調査を近藤に託した。この親友の頼みを近藤は快く聞いてくれた。こうして朔弥はようやく仕事に取り掛かった。そして近藤を見送った彼は、夕食になった。朔弥は今夜も瀧川と二人で過ごしていた。
「どうだ、娘の様子は」
「粥を召し上がりましたよ。それと、リンゴを少々」
「食欲が出てきたのか。よかった」
朔弥は嬉しそうに箸でご飯を食べていた。人嫌いの彼が心配する娘の話を、瀧川は嬉しさを殺してその安心顔を見ていた。
……そうだ、元気になったら、一緒に食事をしよう、それなら彼女のことがわかるから……
なぜこんなに心が暖かいのか、弾むのか、彼にはわからなかった。そんなことを思いながら彼はこの夜、眠りについた。
◇◇◇
明るい朝。朔弥は起きて顔を洗っていた。そこに静かに廊下を歩く音がした。
「おはようございます」
「おはよう。どうだ、調子は」
「はい。ぐっすりと眠れました」
娘の声に弾みを感じた朔弥は、思わず笑みをこぼした。
……本当に元気になったようだ。足音も軽やかだし……
「もう起きてよいのか」
「はい。昨日、お医者様に少し動いて良いと言われたのでお手伝いを」
娘の健康時の声を初めて聞いた朔弥は、清子の若さを感じていた。しかし、その内容に動きを止めた。
「今何と申した?手伝いと聞こえたが……お前が?」
「はい。これからお掃除を」
……病み上がりだぞ?それなのに……
良家の才女としてやってきたはずの彼女の気配りに朔弥は眉を顰めた。しかしなかなか頑固な娘と受け止めた朔弥は、とっさに思考を巡らせた。
……この娘。やめろと言っても聞かぬであろうな……
朔弥は少々考え、顔を上げた。
「それよりも。玄関に行って新聞を取って来てくれ」
「はい!」
娘の嬉しそうな声に、朔弥は笑みを思わず隠した。
「私は居間にいるので。持ってこい」
「はい」
清子はパタパタという足音で玄関まで向かった。そして新聞受けから新聞を三紙取り出し、彼の元へ持ってきた。静かであるが忙しく聞こえる足音。清子の元気な様子に思わず朔弥は背を向けて笑みをこぼしていた。
「岩倉様。旭新聞と、明治新聞。こちらは函館新聞がありました」
「お前……新聞が読めるのか」
「は、はい」
一瞬固まった朔弥に動揺した清子であったが、彼は向かいの席に座れと座布団を指した。
「何か?私いけないことを」
「まだ何も言っておらぬ」
そう言いながら素直に座った彼女の気配を感じた朔弥は、照れ隠しに咳払いをした。
「そこに座って読んでくれ。まずは明治新聞からだ」
「はい。見出しを読みますね。ええと……」
紙面を畳に広げて読み出した清子の可愛らしい声はちょっと緊張していた。この彼女の流れる声を、朔弥は澄まし、黙って聞いていた。
朝食までのひと時の二人の春の部屋には、朝日が差し込んでいた。
つづく
最初のコメントを投稿しよう!