晴れの着物

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晴れの着物

「はあ、はあ……まだこんなにあるのね」 師走、雪の白い世界の函館。積雪の晴天の朝、少女の清子は一人、雪かきをしていた。木製のスコップを手にした長靴の姿。しかし、体を動かしている清子は暖かった。自分で編んだ手編みのセーターと帽子に包まれた彼女は必死に実家の前を除雪していた。するとここに親戚がやってきた。 「ああ。清子か」 「叔父様。あけまして、おめでとうございます」 元旦。伊地知家に親戚が挨拶に来ていた。自宅の玄関までの道の除雪を済ませていた清子は、お辞儀をして親戚一家を通らせた。そんな清子に一同は冷ややかな態度で進んだ。 「全く。新年早々、お前に会うとはな」 「縁起が悪いわ」 「申し訳ありません」 そう言って清子は頭を下げた。叔父の背後にいた奥方と清子と同年代の従姉妹の姉妹は雪かきで鼻を赤くした清子をクスと笑った。 「お正月というのにひどい格好ね」 「ところで優子ちゃんはいるのでしょう?」 「はい。奥へどうぞ」 晴れ着姿の従姉妹達は、そう嘲笑うと室内に入っていった。スコップを雪山に刺した清子は彼らの足跡をそっと見つめた。 ……綺麗な晴れ着。そうよね。お正月ですもの。 髪を結った美しい晴れ着姿に薄く紅を差した従姉妹達は優雅に屋敷に入っていった。清子はそれを見届けしばらく雪かきをしていたが、母の呼ぶ声に室内に入った。 「清子、何をしているの?お客様が来たのだから。早く支度をしなさい」 「はい」 雪かきを終えた清子は休むことなく台所に向かった。そんな彼女を無視した居間からは楽しげな話が聞こえていた。清子は寒い台所で食事の支度をしていた。お重にはお節料理が収まっている中、彼女はお雑煮を温めていた。 ……お椀は、お客様用のものだから、この漆のお椀にしないと。 冷え切った体で支度をしている清子の元に、母が顔を出した。 「ちょっと。いつまでかかっているのよ」 「お母様すみません、雪かきをしていたせいで手が冷たくて」 「まったく、使えないね」 冷え切った手ではなかなか支度が進まない清子に苛立つ母は、苛立ちを隠さずお節料理を先に運んだ。その間、清子は鍋を温めるかまどで暖を取っていた。 ……ああ、やっと手の感覚が戻って来たわ。 寒さに震える清子がいる台所には、彼らの楽し気な会話が聞こえてきた。それは近況報告や学業や旅行の話をする従姉妹達の声は、優子の声と重なり賑やかに響いていた。 この日の優子は、従姉妹達に負けるわけにはいかないと母親に晴れ着を新調してもらっていた。妹の自慢がつららが下がる窓辺の台所まで聞こえていたが、セーター姿の姉の清子には知らない国の事件のように無関係な話に聞こえていた。 するとまた母が顔を出した。 「あ。清子。お酒はこれかい?それにタバコを買ってきておくれ」 「はい。お母様、タバコの銘柄は何ですか?」 「ええ、と」 お客が吸っているタバコを母は必死に思い出し、それを伝えた。清子に財布を持たせ買いに行かせた。 空気の澄んだ正月の朝、行き交う人は神社への参拝のように華やかだった。しかしマフラーを巻いた清子は寒い中、タバコを買って戻ってきた。 「これです、お釣りはこれで」 「いいから。お客様にその顔を見せるんじゃないよ!」 「はい」 そんな清子は奥座敷にいる老いた祖母の部屋に行った。そこには煌びやかな従姉妹の二人が布団のそばに座っていた。 「あら?清子。私たちはおばあさまにご挨拶をしていたのよ」 「ね?あの、おばあさま。明けましておめでとうございます」 「あ。ああ」 最近、記憶が乏しくなった祖母は、二人の孫をしみじみ眺めていた。 「あの、その……あなたたちはどなた」 「おばあさま。私よ!ねえお年玉は?」 「あ?ああ。お年玉?そうだったね。清子。財布を取っておくれ」 「はい」 布団から身を起こした祖母の言葉で、清子はいつもの場所から彼女の財布を取り出し、祖母に渡した。祖母はがま口を開けると二人の孫に紙幣でお年玉を渡した。 「ごめんね。袋を用意できずに」 「いいのよ。おばあさま」 「ありがとう!じゃあ、またね」 祖母には満面の笑みを見せた従姉妹達であったが、布団の祖母に背を向けた途端、清子を恐ろしく無視して退室した。清子は疲れた顔の祖母に寄り添った。 「おばあ様。休みましょうね。お財布は締まっておきますね」 「……ああ。お願いね」 財布を受け取った清子は、ふと思い出した。 「そういえばおばあ様。お年玉は袋に入れて用意していたでしょう?あれはどうしたの」 「え?そうだっけ」 例年の通り、新年の挨拶の孫が来ると思っていた祖母のために、清子は一緒にお年玉の支度をしていた。袋に入れて用意しておいたお年玉が消えていることを清子は不思議に思った。 「ここに置いてあったはずよ」 「私は知らないね」 ……でも無くなっているわ。おかしいな。 清子は首をひねりながら、これは祖母が他に隠したか、あるいは母が心配して預かったのではないか、と思っていた。そんな清子は窓辺を見た。 「おばあさま。また雪が降って来たわよ。清子は雪かきをしてきます」 「あ。ああ」 「お財布はいつもの所に入れておくわね、あら……」 いつもの箪笥の引き出しに入れようとしたが、ふと財布が軽いのが気になった清子が確認してみると、中身が空だった。 「おばあさま、もしかしてお金を全部渡してしまったの?」 「え」 「ほらみて。お金がないわ。誰に渡したの?」 「私は知らない……お年玉を、あの子たちにあげただけだよ」 弱々しい祖母の様子であるが、確かに財布に入っていた高額な紙幣が消えていた。これを祖母に確認できないまま清子は除雪をしていた。 するとここに帰宅する叔父の一家がやって来た。 「清子。お前、ちゃんとおばあさまの世話をするのだぞ」 「はい」 普段、祖母の介護もせず、お金も出さない叔父はそう清子に言い放った。これに伯母も続いた。 「清子。優子ちゃんが言っていたわよ。お前、親が見ていないところで、優子ちゃんをいじめているそうじゃないか」 「私が?そんなことしません」 「こっちを見るんじゃないよ!痣の顔なんか正月早々、おお気分が悪いこと」 やがてここに従姉妹の二人もやってきた。見送りには伊知地家の父と優子が出てきた。 「また遊びに来てね!」 「うん。優子ちゃんも」 「私達、また遊びに来るわ、ねえ、そこを退いてよ」 美しく着飾った従姉妹達は、清子に肩をぶつけながら父親が待つ車に乗り、帰って行った。 ◇◇◇ 「清子。ちょっと」 「何でしょうか」 親戚一家が帰った後、食器を洗っていた清子は母に呼ばれた。母は鬼の形相で彼女を正座させた。 「お前、お義母様のお金を奪っただろう」 「何のことですか?」 「惚けるじゃないよ!財布が空なんだよ!」 こめかみに血管を浮かせた母は、老義母のがま口を畳に叩きつけた。この悲しい財布を清子は虚しく見つめていた。 「お母様。おばあ様は、さっきの二人にお年玉をあげていました」 「でも全部なんておかしいでしょう」 「私もそう思います」 「こいつ!」 「きゃ!?」 母に足蹴にされた清子は畳に倒れた。ここに優子が嬉し顔で顔を出した。 「お母様。お姉様はあの二人に濡れ衣を着せようとしてるのよ。だから今日盗んだのよ」 「まあ?なんて恐ろしい娘だこと」 「違います、私じゃありません」 しかし説明も虚しく泥棒は清子のせいになってしまった。そんな伊知地家には午後も挨拶の人が訪れていた。相変わらず楽し気におしゃべりをする家族を尻目に清子は下働きを続けていた。 「あの」 「うわ?びっくりした?あの、どうかされましたか?」 父の仕事仲間の少年は清子をじっとみていた。 「あの。これ」 「お年玉ですね。これは?」 「奥座敷のお婆さんにもらいました。でも……」 少年は老婆に挨拶に行った時、お年玉をもらったが、部屋に忘れ物をしたので戻ると、彼女が再びお年玉をくれたということだった。 「僕は二回ももらえません、だからお返しします」 「教えてくれてありがとうね。君は優しい子ですね」 「……」 ……あ?私の顔が怖いのね。 押し黙ってしまった少年に清子はマスクの顔を隠そうとそっと背を向けた。そして清子は母親に今のお年玉の話をすると、母の顔は青くなった。 「清子。その話は誰にも話すんじゃないよ。お義母さんの財布は私が預かるから」 「はい」 「あの。お母さま。この男の子のお年玉はどうします?」 「あ。ああ、それは」 清子の母の貞子は奥座敷の姑には、彼女名義の財産があるため、この老いた体調を誰にも知られたくなかった。それを知っている清子は慌てている母を他所に少年の目線に合わせて屈んだ。 「あのね。この二枚のお年玉はおばあさまがくれたのだから、君がもらっていいのよ」 「でも」 「君のようないい子に二回も挨拶してもらって、お婆さんはすごく嬉しかったのよ」 明るい清子の言葉に貞子も続いた。 「……そうだよ。清子のいう通り。だからね?君はもう、あの部屋に行かないでね?」 「はい」 こうして貞子は客間に戻った。部屋からは大人の酒を飲む声、婦人たちのお喋りや優子の声が聞こえていた。この時、ひたすら食器を片付けていた清子に少年が声をかけた。 「あの、お姉さんは行かないの」 「ええ。私は。静かなところが好きだから」 「僕もだよ」 大人の世界で疲れていた少年を気の毒に思った清子は、彼を静かな部屋に連れてきた。 「本しかありませんが、お好きな本があればどうぞ」 「読みたい!お姉さん、読んで」 せがむ少年が可愛い清子は、思わずうなづいた。 「いいですよ、ではこれを」 清子は彼に童話を読んで聞かせた。 「『裸の王様』か……お姉さん、その後、王様はどうなったの?」 「でもお話はこれで終わりなのよ。よし!それなら私達でお話の続きを考えましょうか」 清子と少年は楽し気に話をした。 「お姉さん。王様はその服を作るために高いお金を払ったんでしょう?だったらきっと国民に怒られてしまうよね」 「そうでしょうね」 「恥ずかしくて。僕が王様なら人前に出られないな」 「君はそんなこと思いますよ」 「え」 清子は微笑んだ。 「だって君は正直ですもの。お年玉を二回ももらったって打ち明けたのだから、裸の王様にはならないわ」 「あれは……お婆さんが他の誰かにあげる分だったかもしれないし」 頬を染める少年に思わず清子は目を細めた。 「ありがとう」 「え」 「お婆様や、受け取る人を思ってくれたのね。本当に、ありがとう」 「お姉さん……」 すると、ここに母が呼びにきた。 「お客様のお帰りだよ。雪の様子を見ておいで」 「はい。さあ、君はご家族の所に戻ってね」 清子はそういうと外に出た。曇天の空からはどこまでも無情な雪がまた降ってきていた。気のスコップで独りで雪かきをした菊子は、最後に客を見送った。その中にいた少年は清子に小さく手を振った。清子も胸の前で小さく手を振った。 ……裸の王様か。 元旦の雪の日は寒かったが、少年の優しい心に触れた清子の心は穏やかで暖かった。 ◇◇◇ その後。伊地知家では、管理能力が乏しい老齢の義母から財布を取り上げようと話し合いが始まっていた。 「お婆様にお金なんか要らないわよ。どうせ寝たきりで使わないんだから」 「優子の言う通りです。それに不用心だし」 優子と貞子の冷たい意見の前、父の正也は腕を組んでいた。 「お前達はそういうが、母にしてみれば寂しいじゃないか」 「でもお父様。お婆様はもう自分でお買い物はできないのよ?無駄よ無駄」 「あなた。私もお義母様にお金を持たせる必要はないと思います」 「お前はどう思う……?清子」 先ほどから黙って聞いていた清子に視線が集まった。部屋の隅に立っていた清子は静かに話した。 「確かにお婆様はもう自分でお買い物はできないです。でも、たまにお財布を取り出して中身を見てます。その時は、昔のようにしっかりしてます」 「お姉様はそんなことを言うけど」 「優子は黙れ!して、清子。なぜ母さんはそんなに金を気にするのだ?」 老母を思う父の言葉を清子はまっすぐ返した。 「……お婆様がお金を気にしているのは、きっと私達の心配をしているのです」 「え?母さんが私達の心配を」 「そうです。お財布にお金が入っていないと、この家にお金が無いのではないかと、心配になるみたいです」 「ではなぜ何度も財布の中身を見ているんだ?」 「入っていることを忘れてしまうから、何度も何度も確認するのでしょうね」 「そうか……」 老いてもなお家族を思っていた母の心に息子である正也は心が熱くなった。 「ではやはり、母さんにはお金を持たせた方が良いな」 「でも、あなた。やはり不用心ですよ!」 ここで清子は間に声を入れた。 「お母様。お父様。お婆様はそこまではわかっていません。ですから古いお金でもいいと思います。何かお財布に入っていればそれで良いはずです」 裸の王様から案を出した清子に正也は納得した。 「なるほど、ではこれでどうだ」 正也はそういうと、引き出しから封筒を取り出した。 「お父様、それは何?」 「優子。これは大陸で発行される予定だった紙幣だ。まあ、ただの紙切れだよ」 一見、日本の紙幣のようであるが、それは全く偽物であった。これに清子も納得した。 「それで良いと思います。ではそれをお義母様の財布に入れておきましょうよ」 こうして奥座敷の老祖母の財布には、使えないお金は収めることで決着していた。 その十日後の成人式の当日。またしても従姉妹達が伊地知家に挨拶にやってきた。父と優子は不在であったため貞子が対応した。 「まあまあ。艶やかで、綺麗ですよ、二人とも」 貞子の誉め言葉に従姉妹達は見事な着物で微笑んだ。 「お姉様が成人なのよ。私は付き添いなの」 「ところで叔母さま。お婆様は奥の部屋?成人のご挨拶をしたいのです」 しきりに祖母に会いたがる二人を貞子は早速、義母の部屋に案内した。従姉妹達は蛇のように微笑んだ。 「お婆様。お加減いかがですか?」 「顔色良さそうですね」 「……あなた達、私の孫に似ているわね……」 元日に会ったばかりの孫娘達に対し祖母はそんなことを言った。しかし姉妹達は貞子を見た。 「叔母さま、私達、玄関の鍵を開けたままかもしれませんわ」 「ごめんなさい」 「まあ?では確認してきますね」 そして貞子が去った部屋で姉は祖母に話しかけた。それは身を乗り出し、背後が見えないようにした。 「お婆様。今日は何を召し上がったの?」 「え、ええと。そうね……食べたかしら……」 この間、妹は箪笥に直行した。そして、迷うことなくその引き出しを開けた。そこにあった祖母の財布を彼女は嬉しそうに紙幣を抜き出した。全て盗れば疑われてしまうと思った妹は紙幣を数枚だけ残し、元に戻した。 その時、貞子が戻ってきた。 「玄関はしまっていましたよ?さあ、向こうでお茶でもどうぞ」 「はい」 「ではお婆様、またね」 「……お仕事頑張ってね……」 そんな従姉妹達は笑顔で伊地知家から去って行った。 ◇◇◇ 「清子。お義母様の財布のお金ってこれだけだったかい」 「清子は存じません」 「まあ、どうでもいいけど」 貞子は冷たく笑った。 「あれはね。こっちでは偽札になるんですって。偽札の使用の罪は重いそうよ?どうせ空き巣に仕業に決まっているから。いい気味よ」 この貞子と清子の会話を老齢の祖母は寝床で聞いていた。そして珍しくむくとと起き出した。その目はぱっちりと開いていた。 「あら。お義母様?どうしたの?」 「お婆様。お水ですか?」 「……清子の晴れ着はどうしたの」 「え。清子ですか」 うんと祖母は不思議そうにうなづいた。 「お正月なのに。清子はどうして着ていないの?」 「そ、それは。あ!お義母様。お正月はもう終わったのですよ、ね?清子」 「はい……お婆様。あのね、お正月は終わったのよ?七草粥を食べたでしょう?」 しかし祖母は納得せず、毎日毎日、何度も何度も家族にこれを言うようになった。 「正也。清子はどうして晴れ着を着ないの?お正月なのに」 「母さん。清子はもう、着たんだ」 「そうかい……正也、清子はどうして晴れ着を着ないの?」 「母さん。清子は着たよ」 「へえ、そうかい……そうだ?あのね、正也、清子はどうして晴れ着を」 「もう勘弁してくれ!おい貞子!清子を呼べ!早く」 限界を迎えた正也はとうとう清子に晴れ着を着せることにした。そして清子は家にあった古い晴れ着を着た。これは祖母の娘時代のものであり、新しい物しか着ない優子は見ぬ気もしなかった晴れ着であった。 手っ取り早く晴れ着を着ろと言われた清子は、これを嬉しく袖を通し、家族の前に姿を現した。 「……お母様、支度できました」 「どうでもいいから早くおし。あら……」 「お姉様?」 古い柄であったが元々は高級な品は色の白い清子によく似合っていた。そんな清子は父が待つ祖母の部屋に母と妹とやってきた。 「母さん、ほら、清子だよ。晴れ着を着せたよ」 「お義母様、これで満足ですか」 「おばあ様、もう同じこと言わないでよ」 祖母を納得させようと家族が揃った奥座敷で、祖母は声を震わせた。 「……京子かい?……ああ、よかったね」 涙を浮かべた祖母は清子ではなく、病で早死にした娘の名前を口にしていた。老祖母の世界に家族は息をひそめて彼女の本気の言葉を聞いていた。 「元気になってよかった……でも、京子。お前。その顔どうしたんだい?」 清子を娘だと思っている祖母の涙に優子と貞子が息を呑んでいた時、正也は目をつむりながら口を開いた。 「母さん……京子は転んで顔をぶつけたんだ。そうだろう?」 どこか苦し気な父の嘘に清子は合わせた。 「はい」 「ああ。お前は嫁入り前だよ?もっと自分を大事にしておくれ……それにしてもよかった。京子が元気になって」 ……亡くなった京子さんを、そんなに思っていたなんて。 老齢の祖母が若くして亡くなった娘を思う気持を知った清子は涙が溢れてきた。 「京子、なぜ泣くのだい?それに京子。お前、ずいぶん手が荒れているね」 清子の手を取る祖母に彼女は必死に微笑んだ。 「ちょっと。お水を触ったからよ」 「お前はまだ病み上がりなんだよ?水なんか触っちゃ駄目だろう?ねえ、そこのお前」 「私?」 指名された優子はびっくりした。 「ああ、お前だよ。頭の悪そうな娘だね。ボケっとしてないで京子にお茶を淹れてきなさい」 「頭が悪そうって、それは」 口答えしようとした優子を、正也はたしなめた。 「優子、言う通りにしなさい」 「はい……」 祖母は今度は貞子に向かった。しげしげと嫁の顔を見ていた。 「あなた……ずいぶん、太っているわね」 「え」 「仕事をちゃんとしていれば、そんなに太るはずないですよ。正也、この使用人は今すぐ首にしなさい」 「お義母様!?」 「貞子。退がっていなさい。ここは清子と私だけで」 そして貞子も退室した静か祖母の部屋で彼女は嬉しそうにニコニコしていた。そんな彼女を清子は布団に寝かせた。 「そろそろ休みましょうね」 「京子……よかったね、元気になって」 「はい」 祖母は清子の手を握り、目に涙を湛えていた。 「あんなに辛い治療して……やりたかったこともできなくて。ごめんね。丈夫に産んでやれなくて」 娘の病を自分のせいにしている彼女に清子の胸が痛んだ。 「そんなことないわ」 「苦しかったろう……母さん、代わってやりたいって、ずっと思っていたんだよ」 正也にとっても愛していた美しき妹の思う母の話に、彼もまた涙の顔を背けた。清子もさらに涙が溢れてきた。 「お母様。もう、私、こんなに元気になったのよ。だからもう心配しないで」 「そうかい。じゃあ、これでお嫁に行けるね。正也、正也……」 「はい、母さん、ここにいるよ」 正也も声を詰まらせていた。 「京子を……頼んだよ。幸せにしてやっておくれ」 「ああ」 「はあ、よかった。京子に逢えて、よかった……」 清子を娘と思い手を握る祖母の皺だらけの手を清子は握り返していた。この夜、祖母は旅立った。 ◇◇◇ それから数年後。夏の日。 「朔弥様。私、養安寺に行ってきます」 「そうか、墓参りであったな」 「はい」 岩倉下屋敷の清子はうなづき笑顔を見せたが、彼は顔を曇らせた。 「俺も行きたいが。用事があってすまない」 「いいのです。行ってきます」 岩倉の下屋敷に咲いていた花を分けてもらった清子は祖母の墓参りをした。揺らぐ線香の中、清子は語った。 「ごめんなさい、なかなか来れなくて。でもお婆様はお仕事を優先しなさいって、言うと思って」 墓石の刻印には祖母の亡くなった日、そして娘、京子の名前があった。清子は愛しく見つめた。 「お婆様。そして京子さん。清子は今、岩倉様にお世話になっているの」 手を合わせて清子は墓石を見上げた。白い雲が浮かんでいた。 「まだ、奥さんと言える立場じゃないけれど。頑張っています。本当に、ありがとう……」 夏の風、虫の声が響くお墓は清子には何にも言わなかった。そして立ち上がった清子が振り返るとそこには函館湾の青い海と帆船が見えた。風に流れる髪を抑えた清子には、この南風はどこか自分を応援してくれているような気がした。 「あ、いた、清子さん!帰る前に寄ってね!おはぎがあるから」 「はい!」 寺の奥方の和津の声に清子は微笑んだ。 水平線、眩しい太陽、大きな雲、静かな時間。夏のひとときの清子の胸の中は、晴れやかだった。 fin
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