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冬の気配もほとんど消え、例年より遅めの桜が咲き始めた四月のある日。
駈は紙袋を携え、賑わう街をひとり歩いていた。
つい一時間ほど前。
一仕事終え、コーヒーでも飲もうかと席を立とうとした駈ににじり寄ってきたのは、全身から申し訳ないオーラを漂わせまくった山潟だった。
「これ、三原さんに届けてくれないかな、なんて……」
気まずそうに差し出された紙袋に、駈は即、眉を顰める。
ちらりと中身を窺うと、それは予想通り、随分前からせっつかれていた決算関係の諸々だった。
「実はこちら、今日まででして……」
「……」
駈はもの言いたげな目で男を見やる。色々と書類を揃える手伝いはしたはずだったが……ギリギリにならないとエンジンが掛からないのは、彼の昔からの癖だった。
自分で行けば、と言ってやりたいところだったが……この後山潟は例のゲームの第二弾についての雑誌インタビューが控えていた。
深いため息の後、黙ってコートを羽織った駈に、山潟はもう一度「ごめん!」と手を合わせる。そして、なおも不機嫌そうな駈を上目遣いで見つめると、「そのまま直帰しちゃっていいから……ね?」と付け加えた。
「はい、確かにお預かりしました」
社長にくれぐれも宜しくお伝えください、と圧の強い笑顔に見送られて税理士事務所を後にする。
ビルを出て空を見上げれば、そこはすっかり夕焼け色に染まっていた。
時計を見ると、まだ普段の終業時間にはかなり余裕がある。そのまま帰宅するにはどこかもったいないような気がして、降りようとしていた地下鉄の階段から踵を返す。
……何となく、ここからさほど遠くはないあの街へ、足を延ばしてみたくなった。
半年以上ぶりに訪れたその通りは、多少テナントの変化などはあったかもしれないが、ほとんどあの頃のままの雰囲気だった。そんな見飽きたはずの景色が今ではすっかり懐かしく、駈は少し感傷的な気持ちになる。
そうやってしんみりとしているうちに、駈の足はあの通い慣れたカフェへと辿り着いてしまっていた。
「いらっしゃいませ」
元気な店員の声に迎えられ、駈はぐるりと店内を見渡す。
いつもそこそこ人の入っているそのチェーン店は、今日もビジネスマンやら高校生やらがおもいおもいの時を過ごしていた。
オーダーは決まっているので、そのまままっすぐレジへと向かう。
「ブレンドのホット、Мでお願いします」
トレーに代金を乗せて顔を上げると、猫背の若い店員と目が合う。
きっと大学生か何かだろう、入れ替わりの激しいこの店ではもはや古株ともいえる彼は、一瞬だけぴくりと眉を跳ね上げさせると、また普段通りの無表情へと戻った。
窓際の席へ座り、コーヒーを手に深く腰掛ける。
ビルの間を吹き抜ける風が、帰路を急ぐ彼らの薄手のコートの裾を翻していた。
そのデジャブ感に、駈ははたと視線を下げ――そして、ちょうど一年程前も、こうしてここでぼんやりと道行く人を眺めていたことを思い出した。
あの頃はまさか一年後、自分がこうなっているだなんて、想像すらしなかった。
会社を辞めていることもそうだが、それ以上に――当時、あんなに自分の感情やらプライドやらをぐちゃぐちゃにしていたあの男と、こんな関係になっている、だなんて――
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