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その日も、嚙み合わないスケジュールを何とか擦り合わせて作った時間で、二人は数週間ぶりの逢瀬を楽しんでいた。
だが、ベッド上でうつらうつらとしていた駈に英が差し出したそのカードと「一緒に住もう」という言葉は、一瞬にして駈を甘い余韻から現実へと引き戻してしまった。
「お前……何言ってんだ?」
駈のその言葉に、英はきょとんとする。
「えっ、駈、嫌だった……?」
断られると思っていなかったのだろうか、英はにわかにうろたえ始める。
「だってさ、そこそこ近くに住んでるのに、この通り全然会えてない訳でしょ。だったらさ、いっそ一緒に住んじゃったらいいかなって」
さも当たり前のようにそう言う英。
しかし駈とて、それに簡単に頷くわけにはいかなかった。
「じゃあ、駈は何が嫌なの?」
「嫌っていうか、その……さすがにそれはマズいって」
「マズいって……だから何が?」
「……」
口を噤んだ駈の脳裏に浮かんだのは、黒い服の男の姿と――ぎらりと光ったカメラのレンズだった。
その男は、マンションを出てすぐの所に潜んでいた。
物陰に気配を感じ、ちらりとそちらを向いた瞬間、男はレンズ越しに英の隣を見て――それが『男』だと気付いたのだろう。何事も無かったかのようにスッとそれをジャケットの内側へと隠し、路駐していた車に乗り込み、風のように去っていった。
そのときはたしかにそれで済んだ。だが、もしこれから、何度かそのようなシーンを目撃されたなら……そのうち、彼はある確信とともにシャッターを切るかもしれないのだ。
駈はあまり力の入らない身体を無理やり起こすと、英へと身体を向けた。
「お前と一緒に住むって、そんな簡単なことじゃないだろ」
そう口走って……駈はやってしまった、と思った。
ずっと前にも、こんな感じのことで彼と揉めそうになった。それなのに、また同じことを繰り返そうとしている。
(そもそも英がそんな危険を分かってないはずないじゃないか。それでも、こうして誘ってくれたっていうのに……)
落ち込む駈だったが……英の反応はまるで予想外のものだった。
「……なんてさ。冗談だよ、冗談!」
「……は?」
「言ってみたかったんだよ、その台詞。で、駈はなんて返すかなって思ってさ」
「…………」
駈はそれに怒ればいいのか乗っかればいいのか分からず、ただ黙ったまま、「シャワー行ってくるね」と寝室を出ていく英を目で追いかけることしかできなかった。
……という一件以来、その話は二人の間でタブーとなってしまい、駈は半ば強制的に預けられたカードを財布にしまいこんでいたのだが……。
「これ、ほんとにすごいな。ちょっと翳すだけで入口もエレベーターホールも一発だし、しかも乗るだけでこの階に、……っ」
正面からぶつかるように抱き締められ、言葉が途切れる。
「……ありがと、駈」
肩口に押し付けられた頭の上から、優しい声が降ってくる。
「……別に、まだここに住むって決めたわけじゃないけど」
「でも、前向きに考えてくれるんでしょ?」
「まぁ、こっちの方が職場に近いし、それに……もしお前が売れなくなったとき、少しでも家賃の足しになればいいだろ?」
ここ、死ぬほど高そうだしな、と胸の中から見上げた駈がそう言ってニッと笑う。
「……意地悪だなぁ」
英もまたつられるように笑う。
そして、そのまま引き寄せられるように互いの唇を重ね合わせた。
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