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湯気の立ち込める浴室。
そのやけに広い浴槽の中、駈は英の足の間で、その胸板に凭れるようにして座っていた。
「駈のあのふわっとした髪、好きだけど……今みたいに真っ直ぐな感じもさ、特別感あっていいよな」
「いやいや、特別感って……」
「だって、こういう時でしか見られないわけでしょ」
「……」
駈の濡れた髪を額から後ろに流しながらそんなことを言う英に、駈は困ったようにため息を吐く。
むせそうなほど甘ったるいこの空気は、一度彼と肌を合わせた後でもなければとても耐えられない、と駈はいつも思っていた。
浴室にはその空気に反するような男らしいボディソープの香りが漂っている。ウッディ系とムスクの混ざったようなそれは英にはよく似合っているが、自分が纏うと妙に浮いた感じがして、いっそう気恥ずかしくなるだけだった。
そうしてもやもやとしていると、駈の腹筋の方にするりと手が回ってくる。
そのまま放置していると指先が胸へと伸びてきそうになり、駈はその不埒な手を掴むと「そういえばさ」と無理やり話題を変えた。
「今日、お前のアルバムの話している子がいたんだ」
「へぇ……」
「高校生の子でさ。相当なファンっぽかったな」
「……その子、何て言ってた?」
英の声が、ほんのわずかに震える。
いつの間にか、駈の髪を弄る手は止まっていた。
「うん、かなり気に入ってるみたいだった。友達に熱く語ってたよ。特に、オリジナルの曲が最高だって」
「……そっか」
張り詰めていた空気が、英の吐息とともにほどけていく。
駈は掴んだ手を持ち上げ風呂場の縁を握らせると、さらに彼へと寄り掛かった。
「……お前が前に話していたことって、こういうことだったんだな」
以前、英はこう言っていた――『自分なりに前に進んでみたつもりだ』と。でも一方で、『全てが上手くいったわけじゃない』とも言っていた。やりたいことだけをやるには、まだまだ力不足だ、とも。
きっと英は、これまでのように周囲の期待に応えつつも、いつか必ず、自分の本当に伝えたい音楽を表現する機会を掴んでやろうと力を尽くしてきたのだろう。
駈の呟きに、英はフッと笑う。
そして、駈の髪を耳にかけてやると、そこに唇を寄せた。
「今まで黙っててごめん……心配かけたよな」
その言葉に、駈は緩く首を振った。
「アルバムが無事に出るまではさ、全部伏せておきたかったんだ。何が起こるか分からないからさ。でも、いざ出てみると、今度は本当にファンの人に受け入れてもらえるか、急に不安になってきて……だから、そういう声が聞けてホッとしたよ」
「……よかったな」
英は笑顔で頷くと、「あれ、でも肝心なことを聞いてないな」と駈を覗き込んだ。
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