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「あの日はさ、俺が曲を提供した歌手のミニライブがあったんだよ」
英は駈を腕に抱え直すと、浴槽に背中を預ける。駈ももう暴れたりはせず、その逞しい身体に大人しく寝そべっていた。
「○○っていう、元アイドルの子なんだけど……駈、知ってる?」
「ああ。今女優とかもやってる子だよな?」
「そうそう。で、その新曲発売イベントに呼ばれてね。是非、その場で聞いていてほしいって彼女とそのマネージャーに頼まれて……会場の隅で、彼女が歌うのを見ていたんだよ」
「へぇ……」
何となく面白くない気分になって、駈はつまらなそうに相槌を打ってしまった。
「ちなみに、作詞はその子が担当したんだけどさ。まぁ、よくある失恋系のストーリーなんだけど……やっぱりそこはさすがアイドルだな、そのバラードを歌い始めた途端、一気に会場の空気が変わってさ。お客さんの中には泣き始める人とかもいて。ああ、今回も上手くいったなって、そう思った瞬間……背筋がゾッとしたんだよ」
「……どういうことだよ」
「その時は、なにも。でも……家のベランダで、煙草を吸いながら遠くで点滅している赤い光を見てたらさ……唐突に分かったんだ。ああ、自分は怖かったんだな、って」
英が片手にすくい上げたお湯が、その指の隙間からぽたぽたと零れていく。
「愛だの恋だのの歌を作り続けながら、自分の気持ちにはずっと嘘をついて、歳を重ねていくことがさ」
英はそう呟くと、「青臭いだろ?」と笑った。
「でも、いつもならそう悩んだところで、うやむやにして終わらせられたんだ。そういうことには慣れていたしさ。なのに、その日はあのライブのせいか、どうにも収まらなくて。それで……」
「俺に電話した、ってわけか」
英は黙って頷いた。
「ほんとはさ、一度掛けて出なかったら諦めようって決めてたんだ。それなのに、この電話番号がまだ駈と繋がっているって分かったら……そんな決心なんてあっという間に吹き飛んでいったよ」
バカだよな、俺。そう言って英は肩を竦める。
「でも、あのとき……駈が出てくれて、本当に良かった」
英は駈の腹に両腕を回すと、その腕にそっと力を籠めた。
「だから……あのタイトルは、俺にとっての記念日でもあるけど、戒めでもあるんだ。……もう二度と、駈を手放さないように、って」
「……英」
「ん? ……っ!」
後ろから回された手が、英の後頭部をぐっと引き寄せる。
気付いたときにはすでに唇は離れていて、ただその温もりと柔らかさだけが余韻としてそこに残っていた。
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