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春、満開に咲き誇る桜の下で笑う君に恋をした。 燃えるように赤い瞳に長い睫毛が影を落とし、涼し気な目元は彼の強気な双眸を少し和らげる。筋の通った高い鼻に、薄く紅色の乗った唇は彼を美しくも儚く魅せる。 今思えば一目惚れだったのだろう。 俺はすぐさま仲良くなろうと彼に話しかけた。 「はじめまして!見ない顔だけど高等部からの入学?」 「え?う、うん…。そうだけど…」 「そっか!俺は初等部からここにいるから分からないことあったらなんでも聞いて」 「あ、ありがとう」 俯きがちに答える彼の冷えた手をとって、俺は校舎とは逆方向に向けて歩き出した。生徒も教師も全く見当たらず、ふたり分の足音だけが聞こえてくる。 もう少しで着くところで、手が引っ張られて止まった。どうやら彼が足を止めたようだ。 「は、離せ!」 「もうすぐで着くから…」 「ひっ…、離せ!」 彼は何かに怯えたように顔を青くして手を引き離そうと勢いよく体を後退した。するとその拍子に彼のポケットから何かが落ちる。 それはオメガの───── 「見るなっ!!」 彼は制服が土で汚れるのも構わず、すぐさま錠剤を拾って隠す。そして俺の方を赤い瞳を光らせて鋭く睨んでくる。 彼は俺がどこかへ連れ込もうとしていると思って身の危険を感じたから、先程いきなり立ち止まったのかと理解した。 「あーあ、制服汚れるよ!ほら立って!」 俺は彼の腕を掴んで立つ手伝いをしようとするが、彼はそれを拒むように俺の手を思い切り払った。手が見る見るうちに赤く腫れ上がる。 「あ、すみません…、本当に、どうすれば…」 彼は青い顔色をさらに悪くして、俺の手を優しく洗練されたその両手で掴む。そして涙目になりながら震えて許しを乞う。 「ごめんなさい、どうしよう…あぁ、どうすれば、」 「大丈夫、大丈夫だから」 俺は地面にべたっと腰を下ろす彼に背中を擦りながら声をかける。彼の震えが止まるまで、時間をかけて。 しばらく経つと落ち着いてきたのか、身震いも治まってきた。 「そういえば自己紹介まだだったね。俺はランス・ド・シャンタル、君は?」 「…俺はエル・フォン・リオンヌ」 「エル、君にぴったりな素敵な名前だ!さっきは行先も伝えず歩き出してごめんね。どうしても君に見てもらいたい場所があったんだ」 「見てもらいたい場所?」 エルは潤んだ瞳で首を傾げながら此方を上目遣いで見てくる。かわいい、その表情はさすがに反則だ! 下腹部が熱くなるのを感じながらも、俺は自分の理性に無事勝利し、エルの被服についた土を払ってゆっくりと歩き出す。 「すごい綺麗な場所だから、桜が好きな君は気に入ると思うよ」 ぱちりと片目を瞬きながらエルに告げると、彼は少し顔を赤くして目を逸らされた。なんて可愛いんだ。 薔薇園の横を通り過ぎて少し歩くと、そこには少し古びたレンガ造りの教会があった。壁には蔦が絡まり、硝子でできた天井は空いている。 そのまま中に入ると、陽の光がステンドガラスを通して差し込んでおり、色とりどりに床が彩られている。 木製の長椅子は祭壇に向けて左右にずらりと並んでおり、その間を白と金で設計された絨毯が祭壇の上まで延びていた。 その神秘的な景色を見て、エルは思わず声を上げる。 「綺麗だろ?」 「うん、すごい…。なんか、あまりに感動的で言葉が出ない」 俺はエルを連れて祭壇に一番近い椅子に座らせた。もう使われていない教会といっても、やはり神聖なことは変わらないため祭壇に登るような常識のないことはできない。 「連れてきてくれてありがとう。こんなに感動したのは初めてだ!」 「それは良かった。ここには俺くらいしか出入りしてないし、好きな時に来たら良いよ」 俺が笑いかけると、エルは俺から目線を外して俯いたまま動かなくなった。気分が悪くなったのかと顔色を伺おうとすると、彼は俺の制服の袖をその綺麗な指で掴んだ。 「…………………また、連れてきてよ」 エルの言った言葉を処理しきれず固まっていると、彼は顔を赤く染めながら不安そうに見てくる。その赤い瞳に吸い込まれそうだ。 「もちろんだよ!」 俺がすかさず返事をすると、エルは肩をなでおろした。 そうかと思うと、白く細い腕についた光に当たるときれいに光る銀の時計が目に入ったのか、時刻を確認して急激に顔を青くした。 「……あっ、時間…、入学式!!」 「そういえば忘れてたな」 「忘れてたなじゃ済まされないだろ!や、やばい…」 エルは何かに取り憑かれたようにふらっと立ち上がる。俺は急いでエルを引き止めた。顔色が悪い彼を入学式に出しては倒れてしまうのではと不安に思ったからだ。 「待って、その前に保健室に行こう!」 「駄目だ!お母様やお兄様に怒られる、あ、あぁ…」 「エル、落ち着いて!」 エルは頭を抱え込んでその場にしゃがみこみ、カタカタと歯を震わせる。俺は先程もしたように彼を抱き寄せて落ち着かせるために先ほどと同様に背中を撫でる。 「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」 「大丈夫、大丈夫だよエル。君はひとりじゃない、俺がいる。大丈夫、大丈夫さ」 幾ら励ましてもエルは震えを止めることはない。 俺は顔を覆ったエルの手を丁寧に解いて、俺の手で彼の頬を包む。そうして彼の濡れた瞳に吸い込まれるように近づいて、いつの間にかその距離はなくなっていた。 「な、何するんだ!」 エルはあんなにも溢れ出ていた涙を止めて、その花唇を手で隠す。 「ごめん、つい可愛くて」 「つい!?ついってなんだよ!俺はすごく悩んでるのに!」 「でも悩みなんて吹き飛んだだろ?」 「あ…、で、でも!そういう問題じゃない!」 エルは赤い顔をさらに紅潮させて俺の胸をぽこぽこと叩く。その姿もかわいい。 「エル、入学式には保護者は招かれないんだ。だから大丈夫だ」 「大丈夫なもんか。この学校にはお兄様も通ってるんだ。今頃きっと大騒ぎだ。それにお母様の使者もいるだろうし、既に報告しているだろう」 「そのお母様はオメガの君がこの学校に通ってることに関係あるのか?」 「……」 エルは諦めたような顔をして肩を落とす。俺の太腿に彼の涙が落ちる。 表情をコロコロと変えるエルは非常に愛らしいが、辛そうな顔は見たくない。 「この学校は保護者が出入りすることができないんだ。だから君がここを出ない限りお母様に会うことはないよ。校舎も上級生が下級生に接触しにくい造りになっている。それにこれから品行方正に生活すれば大丈夫さ、俺もできるだけ君を手伝う」 「お母様が退学届けを出したら終わりだ。それに子爵家の君に何ができるっていうんだ」 「退学届けは本人の了承を得て初めて受理される。それに侯爵家が退学なんてそんな外聞が悪いまねしない」 エルは俺の言葉を聞いても顔をあげることはない。 …俺はエルの秘密を偶発的にも知ってしまった。それならば自分の秘密(こと)も話さなければフェアではない。今後エルとひとりの男として関係を作りたいなら、尚更だ。 「それに、俺はこの学院の理事長だからそんなこと許さない」 「……え、理事長…?ランスが?」 漸く顔をあげたエルの顔は涙やら固唾やらでべたべたになっていた。俺は彼の顔を制服の袖で拭いながら続ける。 「子爵家というのは叔父の身分で家名だけ借りてる。本名はランス・ド・ヴェルジー」 「ヴェルジーって、王家の血も継ぐ公爵家…」 「そう、元々この学院の理事長だった祖父が去年他界したんだ。本当は叔父か父が後任に就く予定だったんだけど、叔父さんは領地経営があって父さんは宰相だからって押し付けられたんだ」 俺が眉を下げて困ったような仕草をすると、エルは不思議そうに純粋に疑問をぶつけてきた。 「身分装っても、社交界出たらバレるんじゃ…」 「あー、俺社交界一切顔出てないから問題ない」 「え!?それって大丈夫なのか?」 「なんというか家は特殊でね。父さんと母さんは他の人間に愛しい人を見られたくない!ってくらい互いに溺愛してて、俺はその両親ふたりを掛けて割ったような容貌をしてるから寧ろ出るなって言われるほどなんだ。王家主催の催し物も少し顔だけ出すくらいだった」 俺が説明すると、エルは楽しそうに笑っていた。 「楽しい御家族だな」 「楽しい…?煩いだけよ。話はずれたけど、俺の権力があれば君を守ることができる。だから君は安心して学校生活を送ってほしい」 俺が真剣にエルの目を見て伝えると、彼は嬉しそうに笑ってくれた。 その笑顔が見れるならなんだってしたいと思った。 「エルは将来何になりたいとか希望はあるのかい?」 「うーん…将来について、あんまり考えたことがないから改めて聞かれれるとよくわからない。ずっと兄の手伝いをするようにとお母様から言われているし…」 「そうか、じゃあ学校生活の中で見つけられるといいね」 俺がエルに笑いかけると、彼は自身の将来に向けて少し不安そうに、けれど楽しそうに期待に満ちた瞳で大きく頷いた。 「あっでも!これは高望みかもしれないけれど、どんな形でもいいからランスの役に立てる人間になりたい、な」 エルははみ噛みながら少し照れくさそうに言った。それがすごく嬉しくて、俺は思わず長椅子に置かれた冷えたしなやかな彼の手に一回り大きな自身の手を重ねる。 「エルがそばにいてくれるだけで、俺にとっては幸せなんだけどな」 「…うっ、本当に、そういうことをサラッと言いうんだから…」 「ん?」 「な、なんでもないっ」 エルの呟きが聞こえず思わず聞き返すが、彼は顔を赤らめて俺と顔を合わせないようにそっぽを向いた。恥じらう姿がまたかわいいのだから、どうしようもない。 それから俺とエルは入学式が終わるまでふたりで互いのことを語り合った。エルの幼少期の記憶はあまりに酷く、聞くに堪えないような内容で思わず顔をしかめてしまうほどだった。 どうにかして彼の過去を良きものに変えてやりたいとは思うが、それをすれば今のような彼との幸せな時間も消えてしまうと考えるとあまり気が進まない。 彼が過去も忘れてしまうほど幸せな時間を過ごせるように、これからを作っていこうとこの時誓った。 「夜も更けてきたし、そろそろ寮に行こうか」 「そうだな」 ふたり手を繋いで、教会を出る。周りは既に暗く月明りだけが道筋を照らしてくれた。 そうして校舎の近くまで来ると、見覚えのある生徒が此方に駆け寄ってきた。 「おい!ランス、探したんだぞ」 「リュカか、悪いな」 「悪いなってお前…、今までどこで何してたんだ!入学式にも出ないで、公爵も心配なさってるぞ」 「父上が俺の心配なんてするわけないだろ。あの人は母上のことしか頭にない」 俺よりも少し背の高い幼馴染で、俺の護衛役でリュカは侯爵家の次男坊だ。リュカと俺は人間としての性質がよく似ており、互いに考えていることが言わなくてもわかるくらいには一緒にいる仲だ。 だから予想はできていた。それを回避するために、リュカが目に入った瞬間に隣にいたエルを隠すように一歩前に出たつもりだった。 「あの、ランス…?」 「なんでもないよ、エル。リュカ、話はあとでいいだろう。連れがいるから、送ったらお前の部屋に行く」 「連れって誰だ?いいか、お前はもう少し自分の立場を考えろ。次期宰相候補でありながら、ヴェルジーの嫡男なんだぞ」 「わかってるさ。説教はあとで聞く。だから先にこの子を送るって…」 俺が言い終わるころにはもう遅かった。エルが俺の横から顔を出し、そんな彼をリュカは見ていた。 リュカの顔は紅潮しており、吸い付かれるようにエルを見ている。目が離したくても離せないその感覚は俺もよく知っている。 「……あの?ランス、この人固まってるけど大丈夫なのか?」 「あぁ、気にしないでくれ。さ、行こうか」 「う、うん…」 そうして俺はリュカからエルを離すように彼を連れて寮に足を向けた。 リュカを見た時から嫌な予感がしてはいた。 エルのほうを一瞥すると、特に気にしたふうもなく俺の隣で周りを見ながら歩いている。寮に入るとフロントには若く礼儀の正しそうな男がいる。彼に帰宅の出席をとってもらった後、俺とエルはそれぞれの部屋に帰った。 「じゃあ、また明日」 「う、うん。あの、ランス…」 「なんだ?」 エルは俯きがちに恥じらいながら上目遣いで此方を見てくる。 「お昼、またあの場所でふたりで会わないか?」 「もちろんだよ!俺が迎えに行ったらいいかな?」 「ううん、現地集合で。あの、それでさ、お前の友達は連れてきちゃ駄目だからな?ふたりだけだから、」 俺は思わずエルを抱き寄せて力を込める。なんて可愛いのか、本当に、この子はどれほど俺を魅了すれば気が済むのだろう。 「ら、ランス!?」 「ごめん、エル。もう少しこのままでいてもいい?」 「それは、もちろんだけど…」 最初は抵抗していたエルも時間が経つと、俺の肩に腕を回してくれる。 しばらくふたりでそうしていたが、人の声が聞こえてきてその腕は解かれた。 「また明日、ランス」 「うん、おやすみなさい。エル」 俺は目を細めながら、エルのその陶器のような白い肌に口づけを落とした。エルは顔を赤くして怒ってくる。 エルの幸せのためならなんでもしてあげたい。俺は愛する人を目の前にそう思った。 しかし、自分がどれほど未熟者で愛する人も守れないほど弱いことを俺はこれから散々気づかされることになる。 エルと出会って春が過ぎ、夏になる。 俺たちの関係は変わらず良好で、毎日決まった時間にあの教会で会っていた。 「お待たせ、ランス。前の授業が少し長引いたんだ」 「大丈夫だよ。エル、今日も美しいね。最近俺のクラスでも君が美しいと評判だよ。最初に気づいたのは俺なのに…」 「も、もう!ランス!!またそうやって俺を揶揄うんだ!」 エルは口では強気であるが、顔は少し赤く染めた。 入学式以降から、俺とエルはふたりで昼食をとっている。祭壇に最も近い長椅子は俺たちの特等席だ。この時間が俺にとって何よりも幸せだった。 エルはなれたように俺の隣に静かに座って、手作りのサンドウィッチを手に取った。おいしそうに何かを食べるエルもまたかわいい。そうして俺がいつまでもエルのことを見ていると、その視線に気づいたのかエルは恥ずかしそうに俯く。 「は、早く食べなよ」 「悪い悪い。つい好みの子の食べる顔がかわいかったから見とれてたんだ」 「…ランス!」 エルは咎めるようにランスを睨みつけるが、その表情すらどうしようもなくかわいい。 何事もなく学校生活を楽しんでいるようでよかった。彼は入学式以降表情を陰らせない。それだけで行動してよかったと思ってしまう。 俺はまず、エルの母親であるリオンヌ侯爵夫人の使者を突き止めて退学させた。もともと年齢を偽って入学していたため追い出すのは簡単だった。それから彼の兄にあたるリオンヌ家次男のジークは生徒会に入り、仕事三昧の生活を送っているようでエルにかまっている暇はないみたいだ。従兄である生徒会長にスカウトの依頼をして正解だった。 「エル、困ったことは何もないかい?」 彼は俺の言葉を聞いて、少し考える。 何かあるのか一瞬不安がよぎるが、その考えを覆うように彼は言葉を紡いだ。 「……困ったことはないけど、悩みはある、」 「悩み?俺に解決できるか?」 「ランスにしかできない」 俺はエルの予想外の言葉に顔が熱くなる。 「君は、……はぁ、君はどうしてそんな、、」 「……ランス、?」 不安そうに見上げてくるエルに俺は理性にあらがうことができず、その艶のある唇を奪った。 「…!、んぅ……、らん、すっ」 「エル、あんまり俺を期待させるようなことを言わないでくれ。君を襲いたくなる…っ」 「ランスになら、ううん、ランスと繋がりたい。初めて見た時からどうしようもなくランスに惹かれてたんだっ!ランスのモノにして」 エルは雅な瞳に涙を溜めながらそんなことを言う。 俺は真っ赤に熟れたその唇を貪り、息継ぎで開かれた口にすかさず舌を入れる。そうして絡めるように彼の舌を吸い、上顎を優しくなぞる。思わずあげられる彼の可憐な声は俺のそれをさらに膨れさせる。 「この時間が、ずっと続けばいいのに」 透き通るように白い彼の肌を隠すようにエルには少しばかり大きい俺のブレザーを肩にかける。エルはそれに優しく柔らかい笑みとともに言葉をこぼした。 「そうだね」 そっとしなやかなその手を包み込むように俺は自分の手を重ねた。エルは幸せそうに笑ってくれた。 しかし次の瞬間に彼のその美しい笑みは消えた。 パリンと音がたてられた時にはもう遅かった。つられて上を見上げた刹那、エルの少し強気な右目を貫いた。エルの頭上にあったステンドガラスの破片が彼の瞳に直撃したのだ。 「え、……える、?」 俺は赤い涙を零すエルの瞳を必死に抑えるが、その雨は止まらない。 急いで学院に設備されている病室に簡単に抱えられるほど軽いエルを抱いて連れて行った。最悪の場合でも右目の失明だけで済むと思っていた。そんな俺を天はあざ笑うように彼をそちらの世界へと簡単に連れて行った。 「リオンヌくんの魔力は瞳に溜められていたのです。魔力がある人間は自身の体の原動力であるそれが枯渇してしまうと死ぬということはご祖父さまの件からよく知っていたでしょう。先刻、命を引き取りました」 淡々とそう宣う顔なじみの医師に俺はつかみかかった。彼は悪くないというのに、それでもこのやるせない感情をどこかに、誰かにぶつけなければ収まりそうになかった。 医師は何も言わなかった。ただただ一点に俺だけを見つめているだけで、何も言わなかった。 その医師の視線で正気に戻った俺は、医師を浮かせるほどの力を込めた右手をその胸倉から離した。 「坊ちゃん…」 医師は悲しそうな顔をして横に倒されたエルの亡骸を見つめるだけだった。 「…坊ちゃん、」 「セオドール、悪い。ふたりにしてくれ」 俺はすっかり青白くなったエルを見ながら、静かに医師に言った。医師は何も言わずに出て行った。 「エル、俺の愛しい人」 何度名前を呼んでも帰ってくることはない。予期もしない突然の別れにただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。 まるで現実離れしたその出来事に夢ではないかと疑いたいのに、すっかり冷たくなったエルが現実だと教えてくれる。冷たくなった彼の頬に手を当てて、先ほどまで元気にないていたその口に自身の唇を落とす。 そうして俺はもう二度と会うことがないと思っていた奴を小さく呼んだ。すると辺り一面は白くなり、傍にいたはずのエルは消えている。 『君がひとりでここに来るなんて、初めてのことだね』 金色の眩い光に包まれた奴は、その端正な顔をいやな風に歪ませる。白の亜麻布をそのまま身にまとい、そのしなやかな手足と腹を惜しみなく露出させている。 奴に性別はなく、名もない。ヴェルジー家代々に伝わる鬼神であるが、それは奴が気に入った人間の前にしか現れないため伝説として語り継がれてきた。奴と盟約を交わせば、何かを代償にどんなものでも与えてくれる。それは富や名声だけでなく、時を止めたり進めたりも。 俺が奴と初めて出会ったときはよく覚えている。 『あんなに君の心を動かす人が現れるなんて思いもよらなかったよ。君を最も愛てくれた祖父が亡くなった時でさえ涙の一滴も落とさなかったというのにね。ま、今も泣いていないようだけど』 奴は皮肉めいた口調で続ける。 『そんな顔しないでくれ。雑談はそろそろ終わりにするとしよう』 「そうしてくれ」 『それで、聞かなくてもわかるが盟約は厳粛な儀式でね。貴殿の願いを聞かせてくれるか』 「時を戻してくれ。入学式の日…いや、俺が五歳の時に」 『承知した。貴殿の望みを叶えよう。代償はその寿命。古より続くヴェルジーの申し子よ。そなたの思うがままにすべてを変えてみよ』 奴が両手をあげて声を張り上げると、周りにいるキラキラと光りながら動く粒は俺の身にまとわりにつく。 『そうしてひとつ予言しよう。君は何度もここに来るとな』 「そんなことは二度とない」 金の目を細めて口角あげる奴に俺は睨み返して答えた。 視界全体が白くなり思わず目を瞑るが、次に開けた時はもう既に亡くなったはずの祖父が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。 「おぉ!目が覚めたか!二日程眠っていてどうしようかと思ったが良かった良かった。セオドールを呼んでくるから待っていなさい」 頭も髭も白く伸びきっているがそれでも整った容姿をした祖父が笑顔で俺の頭をなでる。懐かしいその感覚に心が温まるのを感じた。祖父は昔から孫の俺には甘く、厳しく、様々なことを教えてくれた。礼儀作法はもちろん、剣術に異国語と祖父から得たものは俺の財産でもあった。ヴェルジーの鬼神について教えてくれたのも祖父だった。 祖父は鬼神に気に入られる存在だったらしく、それも百年ぶりの人間だったもので鬼神には多くのものを与えられたといっていた。 祖父の死を回避することは俺にはできない。 いや、そもそもエルの運命を変えるためにここには来たのだ。俺は小さくなったその手を強く握りしめた。 「まあ、お茶会ですって?そうねぇ、愛しい息子の願いですから叶えてあげたいのはやまやまですが、わたくしはあまり出てほしくないわ」 ラメがちりばめられたライトブルーのドレスを身にまとい、扇子で顔の半分を隠しながら上品にその雅な瞳を覗かせるのは、ヴェルジー公爵もとい俺の母だ。 俺は公爵家主催のお茶会を開こうと母に提案したが、母は渋い顔をしながら困ったように笑う。 「それは父上と俺の顔が似ているからですか?それならば開くべきです。我々がいつも世話になっているデザイナーにも失礼でしょう」 貴族のお茶会はもちろん、各々の家の子息令嬢を引き合わせたり近況報告をしたりするために開かれる催し物だが、上流階級の人間が身に着けているものは流行になりやすい。それが降嫁した元王家の母ならならないわけがない。 「そうは言っても、…今まで言っていなかったけれど、わたくしたちが貴方を社交界に出さなかった理由は貴方の魔力が強いからなのよ。貴方の魔力に耐えられる人はヴェルジーか王家ほどの魔力を持つ人間だけなのよ。普通の人は貴方の魔力にあてられたら失神してしまうの」 今まで知らなかった真実に俺は目を丸くする。 母はコロコロと笑いながら続けた。 「でもまあ、何やら理由があるようですし、お茶会を開きましょうか。しかし貴方はもちろん参加してはいけないわよ」 「ありがとうございます、母上!」 「構いませんよ。最近お友達とも会っていなかったから丁度良かったわ!それで、貴方は誰を呼んでほしいのかしら?」 母は扇子をパチンと閉じて、伺うように俺を見た。 「リオンヌ侯爵家の子息令嬢全員です」 「…リオンヌ家ですか」 「何か問題でもありますか?」 「いいえ、特にはありませんが、夫人が血統主義が強い方なのよ」 血統主義の人間には厄介な人が多い。何より母は元王族であるため夫人は母を強く敬っているのだろう。その血筋をしっかり受け継いだ子供なら確実に血統主義に育っていることだろう。 「まあ良いでしょう。日取りはいつがよろしい?」 「皐月三日月の丑の刻からお願いしたいです」 母は銀の髪を揺らしながらこてんと首を傾ける。 「その日は貴方の、というより同年代の子の性別検査じゃない。わたくしは貴方に付き添うつもりですし、同年代の子供がいる家は皆さんはきっと参加してくださらないわ。リオンヌ家にも丁度同い年の子がいると聞いていますよ」 「それでもお願いです。お茶会を開いてください。もうこんな我儘二度としません!だから…」 「駄目です。ランス」 母は強い口調で俺の言葉を遮った。海のように深い藍色の瞳が俺を貫く。 「母上…、」 「ランス。貴方は小さいころから、といっても今も十分に小さいですが、我儘なんて一つも言わない子でした。泣かないし癇癪も起こさないし、優秀な子であるとお父様と喜んではいましたが、その反面悪く言えば子供らしくない貴方にわたくしたちの作った環境が良くなかったのかと悩んでいました」 母はその華麗な瞳を細めて、愛しいものを見る目に俺を写す。 「そんな貴方にこんな風にお願いされて、断ることなどできましょうか。すぐに手続きを致します。でも二度と我儘を言わないなんて言わないでちょうだい。もっと頼っていいのよ」 「はい!本当に、ありがとうございます!母上!!」 俺は母に向けて笑うと、彼女は優しそうに柔らかく微笑んでくれた。 これでエルが兄弟たちにいじめられることはないだろう。しかし母親からの虐待を免れることはできない。母の話であれば確実に呼べば夫人はお茶会に参加するだろう。しかし夫人がエルに付き添えないとなれば、確実に侯爵が出てくる。あの人は父から話を聞くに、下の者には厳しく上の者には阿る世渡り上手の人間で、そういう性質だからこそ以前はエルを大事に思ってくれていた。 しかしエルがオメガだと知れば確実に殺すだろう。彼はオメガを劣等種と蔑む典型的なアルファだ。 エルの父親に知られないようにするためには、プライドの高い母親にだけその事実を知ってもらわなければ困る。公爵家で保護することも考えたが、リオンヌ家は刺客を送ったり兄弟を使ってエルをおびき寄せて殺したりといろいろな予測ができる。それエルの生涯続くとなると公爵家でもさすがに難しい。 そのうえ魔力の強すぎる俺はエルに近づくことさえ許されない。 それでも、 「それでも君に会いたいよ、エル」 俺の呟きは泡のように消えていった。 そして十年の月日がたった。また動くエルがそこにはいた。桜の下で儚く笑う君がいた。 「はじめまして!見ない顔だけど高等部からの入学?」 驚くような怪しむような彼の表情に昔を思い出し、懐かしく思える。 古い教会の天井は補強工事を行い、さらに俺の魔力を込めたため山が崩れようと地震が起きようと壊れることはないだろう。 今度こそ彼との幸せを作ろうと誓った。 そうして春が過ぎ、夏が来た。天井は崩れることなく、俺たちはふたりで教会にいた。 「エル?どうした、不安そうな顔をして」 「え、いや。ただ幸せだなって思って」 「幸せ?」 「うん」 エルは天井を見上げながら微笑んだ。その横顔は今にも消えそうなくらい美しく、俺は思わずエルの手首を掴んでしまう。そんな俺にエルは優しく笑った。 「言っただろ、俺の家庭の事情。あの時は本当に苦しくて、でも優しくしてくれたお母様を思い出すとどうしても逆らえなかった。また優しい声で名前を呼んでほしいと何度も願った」 エルは瞳を潤す。 そこで俺はやはりエルを公爵家に匿えばよかったと思った。慕っていた母親に殴られても蹴られてもその人を真っすぐに愛すエルは美しく、羨ましくもあった。 「それは叶わなかったけど、俺はランスに会って初めて人の温かさを感じた。人を愛する喜びと、愛される至福を味わった。お前と出逢えて良かった、ランス」 「俺も、俺も君と会えて毎日が幸せで満ち溢れてる。君を心から愛してるよ」 そうして俺がエルの柔らかい唇を奪おうとしたとき、彼はその口から血を吐いた。 「ゲホ、…ゲホッ」 「エル!?大丈夫か?急に何、が…」 ゆっくりとこちらに倒れこんできたエルを支えると、その小さな背中に回した手にはべっとりと血がついていた。 「ぁ…ッランス、…ゲホッ」 「エル、それ以上喋るな。すぐに助けるからね」 俺は次から次へと流れるエルの血を必死に魔力で止めようと力を込める。しかしエルの胸に空いたその穴から血は止まることはなかった。 「なんで、なんでまた…。君ばかりが、なんで…」 『言っただろう。君はまたここに来るとね』 気が付くと赤く染まったエルはどこにもいなかった。あるのは白い世界と奴だけだ。 「お前が、お前がエルを奪ったのか!?お前が、なにかもかも…!!」 『そんなわけないだろう。私が奪える命はせいぜいヴェルジーの人間だけだ』 奴に殴り掛かった俺の手は空を切る。そこにいたはずの奴は一瞬で移動したのか、はたまた最初からそこにいなかったのか、いつの間にか俺の後ろで寝そべっていた。 『この世界の万事は神が決めている』 「神…?お前もだろう」 『私は神だがこの世界の神、創造主ではない。神が決めたことは絶対、それは真理だ』 奴は金の双眸を光らせて俺に向けてただそうとだけ言った。 『それにしても、君の恋人はなかなかに運が悪いねぇ。前回のステンドガラスもそうだが、君を暗殺するために投げられたナイフが間違って胸を突き刺すなんて、ねぇ』 奴は含みを持った笑いをしながら手をたたく。 「盟約を」 『はいはい、笑って悪かったよ。そう怒らないでくれ。…貴殿の願いを聞かせてくれるか』 「時を戻してくれ。五歳の時に」 『…ふむ。少しいいかな』 「盟約中に口出ししていいのか」 『よくはないが、やはり君は私にとっても大事でね。ひとつアドバイスをしておこう。五歳の時に戻ることはあまりお勧めできない』 奴は無表情で淡々と続ける。なんだかいつも笑ったり泣いたふりをしたりと表情が豊かだったため、少し不気味に見える。 「どうしてだ」 『君が五歳の時に戻ったって何も変わらないからさ』 「なんでだ」 俺が早く結論を急かすように言うと、奴はあきれたような顔をした。 『君は愛しい人をヴェルジーで保護しようとしているんだろう?そんなことをしても未来は変わらない。実母でない人間にいじめられるよ。ヴェルジーの使用人?ヴェルジーに取り入ろうとする人間?もしかしたら君に近しい人間かもしれない。神は運命を変えるのを嫌がるんだ』 「じゃあどうしろっていうんだ!」 『それはもちろん、今すぐ時渡りをやめるべきだ。代償は君の寿命だしね。それでも君は愛しい人と結ばれるために盟約を交わすんだろう?』 奴は試すように俺を見る。 しかし俺の答えは、奴から聞かれる前から決まっている。 「盟約を」 『ふむ、君は君の祖父と似て頑固だねぇ。私は自分の力の弱さを、君たちを見ていると実感してしまうよ。…貴殿の願いを聞かせてくれるか』 「時を戻してくれ。…入学式の時に」 『承知した。貴殿の望みを叶えよう。代償はその寿命。古より続くヴェルジーの申し子よ。そなたの思うがままにすべてを変えてみよ』 そうして奴が宣言すると、周りに漂う粒は俺の体にまとわりつく。 『では、よい人生を』 最後に笑った奴の表情から、ほんの少しの同情が伺えた。
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