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昼休み。笑ったり騒いだりする うわあああん、というように聞こえる。
教室の入り口から出たり入ったりする人に押し流されそうになる。思わず一歩引いてしまう。
「あ、あの……」
擦れた消えそうな声しか出ない。大きな声を出そうと思えば出せるが、嗄れ声になってしまうので、嫌だった。どもる。
「あの……」
もう少しお腹に力を入れて声を出せる。
「何か用?」
いかにも運動部、といった感じの元気そうな日に焼けた女の子が、私にやっと気付いてくれた。
「えと、亮二、上崎君、いますか」
上崎亮二は家が隣近所で幼稚園の時からよく知っている幼馴染だった。
「あー、えーと、上崎ね。あ、あれ、ねえ、あなた、どこかで」
まじまじと私を見つめる。
「ああ、思い出した、あの目黒さんね」
今まで、私が別のクラスに人を呼びにきても、誰も気に止めないが、今は、ちょっとした有名人になりかけていた。ああ、あの子が、という感じだった。
「ああ、ごめん、えーと、上崎だよね。ちょい待ってね」
カミサッキィ、と抑揚をつけて女の子はごった返すクラスの中に戻っていった。しばらくすると、亮二が出てきた。少し驚いているかのような表情が意外だった。亮二は、たいてい、この年頃の男の子がよくする、とってつけたような、「かったりい」だとか「うぜえ」だとかいうような態度を身につけていた。亮二の本来の性格とは違うし、まるで、似合っていない。
「で、何だよ。珍しいな」
「うん、モデルをやって欲しいの」
「はあ?俺が?」
亮二は怪訝な顔をした。
今までならば、そんなのかったりーよ、で終わっていただろう。高校のどうということの無い美術部部員の私は、先生に薦められて応募した県芸術競作会で大賞を取り、その上の日本芸術競作会で新人賞を貰った。自分でも面食らってしまうしかなかったが、それ以上に驚いたのは周囲の反応だった。地元の新聞やTVも取材にくるし、全校集会で全員の目の前に立たされるしで、クラスの中でいるかいないかわからないというお気に入りのポジションは台無しになりかけたが、二週間もすると、また、元に戻り、私はほっとした。
「面倒臭えなあ」
「そう言わずに」
「まあ、賞とったんだもんな……」
少し考えるような顔をする。
「あ、わかった、ヌードだろ。よーし、脱いでやろうか。鍛えているからな。俺の肉体美を見せてやる」
ニヤニヤと笑う亮二。亮二は陸上部だった。
「違うよ。脱がなくてもいい」
私はわざと嫌そうな顔を作った。
「わあったよ。放課後な」
「ありがとう。30分くらいでいいから」
「おう」
クラスの数人からの、ああ、あの賞をとって表彰された子、という視線の中から一種類だけ違う視線を私は感じていた。うまく釣り上げた。釣りはしたことがないけれど、ちょっと釣り糸を垂らしたら、すぐに食いついてきた感じだった。
「じゃ、よろしくね」
私は心の中でほくそえんだ。
美術室は斜めから差し込む西日で赤く染まっていた。赤くし過ぎてしまった油絵のようだった。遠くから部活の威勢のいい声が聞こえてくる。
部屋いっぱいにテレピンの臭いが漂っている。油絵をはじめたばかりの頃は臭く思ったけれど、今はなんとなく馴染んでいる。もともとあまり活発な部活ではないせいか、私の他は一週間に一度、顔を見せればいい方だ。今、美術室にいるのは私と亮二だけだ。背もたれの無い、古くて傷だらけの椅子に胡坐をかいている。
鉛筆でさっさとラフを描く。綺麗な顔をしている。亮二は、割合整った顔立ちなので描きやすいが、その分、特徴を捉えるのは難しい。角度次第でまるで別人になりかねない。
「にしてもさあ」
亮二は暇そうだった。
「賞をとったことだけど、よくわかんねえけど、国体で優勝したようなもんだろ。やっぱ凄えよな」
「うん、どうかな」
「おい、また賞に応募すんのか。俺の絵で」
「どうしようかな」
「えっ、それは、まずいだろ、なんつうかさあ。ひょっとして、俺、責任重大?」
少しうろたえたような顔をする。
「大丈夫だよ。文化祭に展示くらいはするかもしれないけど、基本、習作だから」
「なんだよ。練習台か」
「うん、だから気楽にね」
話ながら軽やかに鉛筆を走らせる。
私が絵を描くのが好きなは、目の前の動かしたり、かわっていったりすることを自由にできるからだ。留めるもよし、変えるもよし。自由自在だ。目の前の誰でも手が届くものを、誰も手の届かないキャンバスの中に自分の力で再現できる。これが魅力的なことだった。
だから、私は描く。描き続ける。好きな風景を。好きなものを。
「ちょっといいか」
亮二は急に私の下書きを覗き込んだ。止める暇も無かった。
「おおっ、さすが。上手いじゃん」
「ちょっと、描いている間は見ないでよ」
「えー、別にいいだろ」
「落ち着かないもの」
「鶴の恩返しじゃあるまいし」
亮二は笑った。
開けっ放しになっていた美術室の扉が開いた。亮二の彼女の竹芝さんだった。あまりこない放課後の美術室だから、なんとなく、気後れしている感じだった。
「亮二……」
「おう。迎えに来てくれたのか」
「うん」
可愛らしく頷く。私とは違う意味で大人しく、穏やかな子だ。私の場合は大人しいというより、地味で暗いが、竹芝さんはそうではない。女の子らしい大人しさがある。私は痩せっぽちで、目ばかりギョロギョロと大きい。今も昔も男の子に間違えられる。
男の子はもちろん、女の子にも好かれるだろう。亮二が彼女にしたのも、納得がゆく。
「あ……目黒さん」
「ごめんね、上崎君とっちゃって」
普段は冗談など言わないけれども、冗談っぽく聞こえるようにする。
「あ、うん」
「すぐ返すから。その辺に座っていて」
竹芝さんに対して、自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てくる。サッカーで言うなら美術室は、自分のホームなのだ。アウェイではない。余裕綽綽だった。
「あの……」
「ん、何」
「目黒さん、凄いんだね。賞をとるなんて。新聞にも載るし」
「まぐれだよ。本当にたまたま」
「いや、そんなことないぜ」
亮二が口を挟む。
「こいつ、昔っから絵、好きでさ。いつも描いてたし、上手かったぜ。一緒に遊んでいた奴ら、みんな、こいつに好きな漫画のキャラとか似顔絵とか描いてもらってたしな。継続は力なり、さ」
「頑張ったんだ」
「あ、亮二とは幼馴染だもんね」
竹芝さんは、素直に頷いた。
私は一度、竹芝さんに会ったことがある。会った、というより出くわした、という方が正しい。去年の秋のことだった。美術部の帰りに、忘れ物をとりに教室へと帰った。オレンジに染まった人気の無い隣の教室で声高に談笑している生徒たちがいた。私は、多分、話の輪に加わることはないな、と漠然と思っていた。
「大丈夫だよ」
「そうかなあ。付き合っているんじゃないかって思う。子供の頃から知っているんだよ。いつも一緒だし」
「絶対、付き合ってないって。考えすぎだよ」
「あんなキモい女に負けるわけないよ」
屈託の無い笑いが響く。何の話をしているのだろうか。人の輪に入らないイコール人の話に興味が無い、というわけでもない。クラスで空気化している私だからこそ、けっこう色々な噂話を小耳に挟む。興味ないだろうと思われているから平気なほど喋っている。隣のクラスの噂話も多少は気になる。聞き耳を立てるというほどではないにしろ、少し注意をしていた。
「上崎君、カッコイイよね」
なぜ、亮二の話が出てきたかよくわからなかった。
「那美なら釣り合うと思うよ。頑張れ」
「そうだよ」
「そろそろ帰ろうよ」
バタバタと足音がする。
忘れ物をとる。
ようやく、亮二と、そして、あろうことか自分の話をされているのだ、ということに気が付いた。そのまま、無意識のうちに、廊下に出てしまう。
二人がバツの悪い顔をして私を見ている。噂をしていたキモい女と出くわしてしまったからだろう。もう一人は、愕然としていた。私は彼女に目を奪われた。
夕焼けの赤い赤い光に浮かび上がった彼女は、それこそ、一枚の絵のようだった。
それから、数日で亮二の絵は完成した。
「おおっ、これが俺かあ」
亮二は、さすがに上手いな、とか。凄ぇ、とかいいながら絵を見ている。
「ちょっとイケメンすぎたかな。補正をかけちゃった」
「馬鹿。もともと俺は顔がいいんだよ」
私は、ちらちらと、夕陽を照り返している時計を見つめた。そろそろ、竹芝さんが亮二を迎えに来る頃だった。
きた。
遠慮がちに扉から顔を覗かせて、亮二を見て弾けるように笑う。子犬のようで可愛らしい。
「わっ、これが、亮二?」
竹芝さんは
「やっぱり上手いねー」
「絵の中の方がカッコいいでしょう」
自分の図々しさに呆れてしまうくらいだ。
「文化祭の展示が終わったら、亮二にあげるから」
わざと馴れ馴れしい感じで亮二に言う。
「でもよ、自分の絵を貰っても、微妙だよな」
亮二は少しヘンな顔をした。
「じゃあ、私が、貰っちゃっていい?」
竹芝さんが声をかけた。
「おう」
高校生の時、付き合う人とそのまま結婚して一緒になるより、別れるという確率の方が多いだろう。そんな時、この絵は、どんな記念になるのか。私は竹芝さんをかなり、意地悪に見ていることを自分でも自覚した。
「でも、本当に上手にかけているのね。なんだか、綺麗に見えるくらい」
小首をかしげる。
「ねえ、あなたも描いてあげる。どうかしら」
本当は、彼女を描きたかった。あの時、とっくに決めていた。
「ね、いいでしょ、お願い」
「描いてもらえよ。賞とった奴に描いてもらえるなんて、なかなかないぜ」
夕闇に追い立てられているような不安げな表情。これを描きたかった。
「うーん、じゃあ、頼もうかな」
「ありがとう!」
私は心の中でほくそえんだ。あなたは私のもの。私の絵になる。画になるあなた。
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