神保町の女

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 冬の冷たい朝。灰にとけた紅がかった霙。偉そうに神田解放区だとか叫んでいた学生たちは逃げ散っていた。靖国通りは警察や古本屋の店員たちが片付けている。革命も醒めれば、ただの夢。バリゲードも粗大ゴミだった。横倒しにされた車が、ヨイショッという掛け声と共に戻される。  いまさら学生運動の渦中に参加することもできなさそうだった。またあの連中と顔を合わせるかと思うと腹立たしい。そして大学に戻るのも嫌だった。あんな何も考えていないようなノンポリと同じ空気を吸うのも。どこにもいけない。フラフラと舫を解かれた舟のように、川面を漂う。 「しばらく私の手伝いをしてくれると助かるねえ。ちゃあんとお銭は出すよ。革命の資金にすればいいじゃないか」  女は啓輔の心中を見透かしたようにニヤリと笑った。行き場が無い、そういう心持ちであることを女はお見通しだった。 「ほいじゃ、握手だ」  美しく白い手を伸ばす。ひどく冷たい手。何か作り物めいた感覚さえある。白い腕を抱いて眠る瘋癲変態老人の繰言が述べられ、こんなものが文学なのかとひどく失望した川端康成の『片腕』を思い出した。 「あんた名前は?」 「そうさね。ミドリでいいよ」  苗字でも名前でもあるような口ぶりだった。 「どんな字?」 「水辺の鳥さんよ。で、セイガク、あんたは?」 「啓輔、村田啓輔だ」  神田解放区破れた街の中、水鳥は、場違いなほど堂々としていた。  アメリカ軍の皮ジャンとジーパンという姿。すらりとした彼女にはよく似合っていた。蕎麦屋の出前に使うような自転車に乗っている。うしろに本のぎっしり詰まったダンボール箱をカートに載せて押し歩く啓輔が続く。  古書店街は古い町並みとは異質に最近は細長いペンシルビルがニョキニョキと建築されはじめていた。神保町は水鳥にとって勝手したる我が街といった感じだ。正にドン・キホーテとサンチョ・パンサだった。  ちょっと店先をのぞけば本の山。未だに括られままの全集がオブジェのようにおかれたり、さらに日焼けした本が書棚に詰まっている。古書の香りが店先にも漂う。100円の古本が詰まったワゴンが無造作に置かれる。革命騒ぎなど無かったかのような本に、古書に支えられた確固たる現実があった。  水鳥は古本を漁る書痴たちとも親しいようで声をかけては、本の話をしていた。何人かを裏路地に連れて行き、札を握らせ本をダンボールの中から渡して古書店に売る。またはメモを渡して買ってこさせる。 「店にはいいなさんなよ。あんたの探している本、見つかったら買っとくよ」  ビルヂング、巨大な三省堂の前で立ち止まる。とりあえず終点だ。 「水鳥は古本屋じゃあないんだな」 「おうよ」  水鳥は上機嫌だった。 「古本屋からみつけるのさ。せどり屋って奴だよ。自分じゃ売るのも買うのもやらない。古書店には嫌われているからね。敷居はまたがないで人にやらせるのさ」  8割が売りで、2割が買いだった。 「さすがは天下の神保町よ。本の価値を知っているからなかなか買い入れはできないやね」 「なんで古本屋をやらないんだ」  事務所と称する古書が充満している雑居ビルに水鳥は住んでいたが、そこでも古書は一切販売していない。 「店をもてないんだよ。組合に嫌われているからね」  おかしな話だった。古物取り扱いの許可を得れば誰でも古書店くらいできるだろう。中世のギルドではあるまいし。あらかた古書を売り終わり意気揚々と引き上げていく。ガラガラとカートの音が軽い。古書店街の夜は早い。6時になれば店は閉まる。  大屋書房のショーウィンドウには浮世絵が飾られていた。葛飾北斎や歌麿といった絵。富士山、江戸の町、永代橋、歌舞伎役者、丸髷の女。一服の画。煙草盆と煙管、女の脱いだ着物……女の姿は無い。女のものは散らかっているのに。 「あたしはここから抜け出してきたのさ」  水鳥は面白そうに笑った。 「古いものはいい。ワインだけじゃない。落ち着きがある。なんていうかな。新しいものっつうのはおっかないよね。まだ固まっていないコンクリとか、そんな感じだよ。ちょっと歩いたらズブズブって感じ」 「固まっていないコンクリートか」  別の大学の学生が自慢気に目の前でやってみせたバリゲードの作りかたを思い出した。どこの学校にもある事務机にコンクリートを流し込み、固まったのち針金で結い合わせる。重バリゲード、と名づけたその代物を前に、開発者は針金とコンクリでもって我らは連帯する、と煙草を吹かしながら得意そうに言い放った。 「寒天だよ。心太だとか餡蜜だとか、グズグズだとみっともなくて食えたものじゃない」 「時間がたてばいいってもんじゃないだろ」 「まあね、あんたは新時代を夢見る革命家だからな」  水鳥は笑った。  昔の権力者が歴史を、価値観を、秩序を、でっち上げた世界。権威を飾り、その牢獄のような世界でいきなければならない。死んだ人間が生きた人間を支配し続ける。そんなことがいつまでも許されていいのか。古いものが、今のこの人々を抑圧し苦しめた世界を支えているのならば破壊すべきではないのか。    せどりの他、建場回り、という廃品回収場から本を集めるやり方もあれば、郵送や本を持ち込む客から買い取ることもあった。独特なのはこれといった家に押しかけて買うという方法だった。  戦前の地図から、かつての素封家を探り出す。貴重な古書を持っている金持ちの家など大きいからそんなことをしなくても分かるだろう、と思うかもしれないが、太平洋戦争や開発で既に小さな家に転居している場合の方が多かった。   水鳥は古書の買い付けに訪ねるときは、いつも上等な訪問着をきていた。いかにも奥様然とした感じで目星をつけた家に上がりこむ。そして啓輔は、軽トラを運転して、止めておく。 「ごめんくださいまし。ええ、町内会長さんの藤田さんから、御紹介あずかりました壽屋骨董店でございます」  目ばかりギョロつかせた老婆が不審気に手土産の高級和菓子を受け取り、水鳥を見つめる。 薄暗いアパート。廊下に白い光が漏れて廊下に滑っている。これでも郊外の大地主だったという。農地解放でほとんどを失い、今はアパート経営でなんとか老後をおくっていた。大地主の妻だったという老婆は一人暮らしだった。地主といえば打倒されなければならない存在だが、あまりにみすぼらしい末路。打倒するまでもなく倒壊した階級と言えなくもない。 六畳一間の炬燵の上には古書は無かった。ひび割れた茶碗、壷だとか古い算盤、煙管などのガラクタが積まれていた。 「はあ、なかなかのものでございますね~ 」  愛想よく対応して不審げな顔の老婆の警戒感を解いていく。まるでこんがらかった糸を解いていくようだった。20分後、世間話を楽しげにするようになっていた。魔法をみているかのようだった。角を突き合わせてああだこうだと議論をしていた自分たちとは全く異なる。世間ずれ、世慣れていた。 「あ、それともう一つ。古本とかありませんかねえ」 「ああ、あるよ、うちの人がたくさん持っていたよ。そのダンボール箱に」 「見せてもらえませんか」  古本というより古書だった。戦前の本、江戸時代の古い戯作本もあった。目当ての古書を見つけても、物欲しげな目つきをすることはない。あくまで興味なさげに、自然に視界に入ったような表情。魚を狙う水鳥だった。 「どうかね。へへ、その古いお化けの絵本、破いて障子の紙にでもしようかと思ったんだけど」 「それほどじゃないですけど、いくつかいいものはありますよ。じゃ、この辺一応は一緒に引き取らせてもらいますか」  まとめて5万。老婆はホクホク顔だった。 「いやー、今回は掘り出し物だったわ。永井荷風の『すみだ川』が掲っている古文芸雑誌だ。あと発禁になった『ふらんす物語』とか。島崎藤村『破戒』の初版とか。他にもいろいろある。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』もいいね。江戸の妖怪本だ。最近明治本ブームでね。ざっと30万かな」  水鳥は泉鏡花が好きだ、と言っただけあって文学専門だった。たまに研究書のようなものも扱っていた。 「本を買い叩いて、ガラクタの方を高く買ったのは、他の古書店にばれないようにするためか」 「お、察しがいいね。何か買うと必ず嗅ぎ付けられるからね。骨董屋ならわからないし、もし、骨董屋が来ても婆さんのアパートにはガラクタしかない」  なんとなく老婆から、騙して巻き上げたような気分だった。罪悪感ではないが、何か釈然としない気分だった。 「どうした。浮かない顔だね」 「いや、別に」 「本を解放しているんだから、充分に革命的ってもんだ」 「あの婆さんこれから、どうするんだろうな。ずっとあのアパートの管理をやっていくんだろうな。時々、入る小金に喜んで」 老婆を哀れに思う自分が啓輔には不思議だった。 「ふん」 「伝統的なお金持ちは土地とか屋敷を手放しているから。蔵書とか。もう地主って時代じゃないだろうしね。時代は変わるんだ。チェホフの桜の園みたいに。で、私はそういうののあがりで暮らしているんだよ」  水鳥は呟いた。 「どう。しばらく手伝ってみるかえ」  答えは決まっていた。
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