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啓輔は、水鳥と共には古書のせどりや買い入れに行き春を過ごした。すぐに店を覚えて水鳥の使いで売ったり買ったりした。神保町にはそれぞれ、得意分野の古書店がずらりと揃っており、文学なら田村書店、建築なら南洋堂、歴史なら一誠堂書店と高値で買ってくれる。本当の希少価値の本は得意先へと売る。
今日は古書の市に出るという。神保町のビルだった。市を立てている有名な神保町の古書会館ではないが、近くにある製薬会社のビルだった。地下は異様に広い。
「今日は私たちみたいな店をもっていない連中が、ここで売買するんだ。普通の古書展じゃないからな。しろ人は参加できないのさ」
白人ではない。どうも店のことを「しろ」と言っているらしかった。店にせどりに行くことは、「しろ攻め」と言っていた。時々倉庫兼事務所に訪ねてくる者たちの間で使っている符丁。彼らは不思議と水鳥と雰囲気が似ていた。他にも「集める」を「あわとる」、「客」を「かみ」と言ったりして、啓輔には言いなおしていた。
「こんなにたくさんいるのか」
無宿風、テキ屋風、やくざ風から正反対の実業家や老学者風。怪しげな、どうやって生計を立てているかさっぱりわからない人々が蠢いていた。取引されるのは古書だけでなく、骨董もあった。陶器や仏像、書画などチャイナのものが多い。冷房はきいているが、天井が低いためか真夏の湿度がおしよせてくる。古書に毒といえば、毒な環境だった。独特の掛け声で競りが行われる。
古書が積み上げられ、塊ごとに荷出しがそこから取り分けて、振り手という男が声を張り上げる。
「1万、1万、夢渓筆談、3巻本。えー、これが1万!」
「1万2千!」
「1万5千!」と水鳥が声を張り上げる。
「はい、1万5千、1万5千、はい、どうだ。これが1万5千」
「1万8千」
「1万8千、さあ、どうだ、もうないか、もうないか。ヨシッ! はい、おちた1万8千! 1万8千、魚目さん!」
本が空中をすっ飛んできてドサリ、と落ちる。本を振るから振り手、と言われるそうだ。山帳という記録係が書き留める。なんだか手品を見ているようだった。
「ちぇ、状態悪いのに1万8千かよ」
水鳥が愚痴る。
その後もなんとか競り落とそうとしていたが、目ぼしいものはあまり手に入らないようだった。その後、水鳥の本が振り手にかかる。
「えー、こいつも5千、5千でどうだ。『一千一秒物語』」
「8千!」
「1万!」
「1万3千!」
どんどん上がっていく。水鳥はオヤ、というような顔をした。
「2万!」
「2万3千!」
「2万5千!」
「2万5千、もうないか、もうないか、ヨシッ!」
水鳥はふう、と息を吐いた。
「意外だね」独り言ちる。
「おい、水鳥、今ちょっと高校の演劇部で足穂はやっとるんだで。そんで先生がな、思い出して買うんじゃ。2万5千でもちと安いくらいじゃあ」
アロハシャツ、団扇とアイスキャンデーを持った安物のハワイアン風胡麻塩頭の男が声をかける。
「そりゃ知らなかった。ありがとうよ」
水鳥の分は終わった。
「どうだった?」啓輔が声をかける。
「まあ、可もなく不可もなくだね。大損よりはいいか」
「残念だったな」
「はは、残念なものか。だいたいね。物事っつうのは自分の見立てよりうまくいかないものだよ。6、7割うまくいけば乾杯、5割で満足、4、3割までは落胆しないこったね」
古書の分が終わり休憩のために一階のホールに出た。人々が立ち話をしている。たいていはどこで何が出た、とか掘り出し物の話だった。
「少なくなったな~」
艶やかな百日紅の柄の訪問着姿の水鳥がぼやく。
「これが?」
「昔は一族だけでやりとりできて楽だったんだけど、こうも有象無象が入り込んできちゃね。どうしようもないよ」
どよめきが起きた。
「はい、すいません、はいとおります、はいー、はいー」
何か大きなものが運ばれてくる。黒びかりする長方形の箱。箪笥や長持ではない。もっと大きい。棺桶だった。
「あれは? あんなものを売るのか」
「あー、中身ね。漢方薬にするんだよ。昔のミイラ」
得体の知れない場所だと思っていたが、ますます妖気じみてきた。
「おや、水鳥じゃないか」
坊主頭、羽織袴の男がニヤニヤと笑っている。水木しげるの漫画でみた「ぬらりひょん」のようだった。目は異様に鋭い。
「あら、先生。いつも御贔屓に」
なんとなく胡散臭い山師風の男だった。一しきり水鳥と本の話で盛り上がる。
「なんだ、こいつは」
無遠慮に啓輔をじろりと見やる。
「ウチの労働者」
「お前も助平だなー。若い男をくわえ込んでいるのか」
男は水鳥の尻を撫でる。
「はは、そんなもんじゃないですよ」
嫌がるどころか、水鳥は媚びるような視線を向けた。
「そういや、先生、執筆の調子は如何ですか」
「最近ちょっと詰まっているなあ」
「よ、大学者! 最近は映画館も経営しちゃって金持ちだしね~」
「よせやい。金持ってても、あんたらのところでしか、面白い本は買えねえんだ。種本はみんなここで手に入れたんだぜ」
まんざらでもなさそうに、鼻をうごめかす。
「先生、あたしらの話を書いてよ。面白いとおもうよ。さるやんごとなき高貴な一族の子孫にしてさ」
「なるほど、そりゃいいやな」
先生と言われた男は上機嫌で去っていった。
啓輔はひどく嫌な酸っぱい気分だった。
「玩物趣味は破壊されなければならない」
呟いてみる。これも自分の言葉ではなかった。啓輔はわかっていた。自分の言葉など無く、流れていく言葉を拾っていただけだと。ML派の一学生が喚いていた台詞だった。吊るし上げた指導教授の麗々しく飾っている壷を割ってやったと自慢していた。ML派はマルクス・レーニン派の略称だが、毛沢東林彪だといわれるほど、毛沢東思想に傾倒していた。文化大革命こそ日本革命の手本と叫んでいた。
腹立ち紛れだった。先生と言われた男に媚びた水鳥の態度がカンに障った。嫉妬だ。
「まあ、そういいなさんな。あの人はね、箕なおし、竹細工とかそういうのが得意な一族を華々しく小説とか論文とかにして世間に売っているのさ」
「山窩か? 聞いたことはある」
天皇制を解体することこそ、革命には必要であると叫んでいた男が言っていた。日本にはたくさんの先住民族が独自の文化を築き繁栄していたが大和王朝が踏み躙って征服者として君臨しているのだと。
「ああ、それ。まあ、あの先生が勝手に言っているだけだからねえ。その人たちが縄文時代の人みたいに暮らしている写真まで撮ってさ。学位まで貰っちゃってる。一般の人たちは信じちゃっているんだよね。本当の歴史なんてものはなくて、みんなが信じるものが事実になって歴史になる」
水鳥はケケケと笑った。
「でも、それは先生の夢なんだ」
「古い老耄の夢じゃないか。ここにいる連中もこうしたものが、幅を利かせているせいで新しい世の中や新しい時代がこないんじゃないか」
「新しいものってのは、ただ去っていくだけよ。流れ落ちる水だ。そして余分なものを洗い流して古くしていく。そうやって古くなったものだけが残る。でも、それもまた100年、1000年のうちに消えていって誰も知らなくなるのさ。そして最後に漂っているのが誰かの夢なのさ」
水鳥がひどく疲れたような顔をした。
「私たちはね。戸籍もない、国籍もないんだ。古物回収で暮らしていて日本だけじゃなく、世界中を流離っている。私も親父から聞いたよ。昔は中から有名な骨董鑑定士とか、大学者とか出しているって。まあ、戦後この方万事世知辛くなっちまって。そういう一族だけでやってられなくなっちまった」
また、振り手の掛け声が幻聴のように響く。
「あたしも店、持ちたいやね。根無し草は気楽だけどねえ、辛いものさ。舫が無いんだから」
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