神保町の女

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 夏に神保町を旅立つ。軽トラを運転して水鳥と一緒に日本中を回って秋を迎えた。ただ古書を買い、町々の古本市で売り払うと言っても実に様々な人間模様や悲喜こもごもがあった。  妾を囲った旦那への復讐で旦那の集めた春本を売り払う本妻。スポーツカーを乗り回す地主のバカ息子から買い叩いた数々の夏目漱石の『こころ』などのサイン本。あまり価値のない偽物の清朝の『聊斎志異』などの志怪小説を後生大事に抱えて売ろうとしない元将軍。宮沢賢治の自費出版の詩集を恐ろしいほどの高値で買い取った賢治を仏の生まれ変わりと信じる大寺の住職。おそらくは盗品であろう井上円了自筆原稿コレクションを控え目に披露した小市民然とした中年男。水鳥に裸身を触らせることを条件に谷崎潤一郎の初版を全て安値で売った盲目の古書店主……みな愚かで哀しい古書に憑かれた人々だった。  それ以上に一緒に旅をしている水鳥に啓輔は惹かれていった。啓輔の運転する軽トラから顔を出して髪を靡かせる姿。蒸し暑い書庫の中で真剣にページを捲る姿、輝く夏の海辺で寂しげに佇む姿。猫じゃらしをふざけて襟の中に投げ込む悪戯。陰のある奇妙に明るい笑顔。    鈴虫の音がする。薄のたてるさらさらとした音。夜風がホロの隙間から吹き込む。 「野宿もいいねえ。売れたおかげで軽トラの中で寝れるよ。在庫補充する必要があるけどね」  水鳥と二人分、寝袋にくるまるスペースはあった。もぞもぞと身体を動かす。 「これからずっと、あんたといたいな」 「やめときなよ。若作りしてるけどおばちゃんだよ」  水鳥は何歳なのだろうか。見たところ20代後半から30代前半だが、40代でもおかしくない。ひどく老けた表情を見せることもあれば、少女のように溌剌としていることもあった。 「昔は夢も希望も好きな人もいたんだ。こんな風じゃなきゃよかった」  水鳥の呟きが聞こえる。 「でも、駄目。こればっかりはあんたのいう古いものにしがみ付く、親父とか、家族、親戚とかのせい、いや振り切れなかったあたしのせいなんだけど」  何かわからない言葉を呟いた。何語かもわからない。聞いたことのない言葉だった。意味は少し水鳥が教えてくれた。掟に従って生計をたてよ、祖先を敬え、古いものを敬え、水鳥たち古書集めの一族は、はるか昔に蛮族に焼かれた図書館の本を全て集め直し、世界を救う学識のある10人に渡す、神聖なつとめがあるという。 「誰にも言っちゃいけないって言われていたけど。あんたにはじめて話すよ。まあ大半はインチキだろうけどね。なんか勿体つけた神話に縋ってないととてもやってられなかったんだろうねえ」  向うを向いている水鳥の声が胸に染みた。愛おしく思えた。 「人手に渡っては売られ、蔵書にされては手にとって貰えず、ほんでもって、また売られて店先に置かれて、誰かがひょいとまた買っていく。あたしが古本を売り買いしているんじゃなくて、あたし自体が古本みたいなものかもね」  神保町には中華料理店が多い。東方書店、内山書店といった有名なチャイナ関係の書店もある。ひょっとしたら彼女は、この国に流れてきた人たちの子孫なのかもしれない。古いものを買い集め売り払いながら流離う一族。神話の時代からの一族という荒唐無稽な話。嘘かまことか、まことか嘘か。夢か現か。現か夢か。こうして得体の知れない女と一緒に大学からも学生運動からも逃げて、軽トラで旅をして、古書を売り買いしているという方が、よほど非現実的だった。 「俺が、俺が水鳥に店を買ってやるよ。いずれ」 「そりゃ、どうも。豪気な話だねえ」  笑う。低く歌いだす。どこかで聞いたことのあるような愁いを帯びたそれでいて奇妙に明るく優雅な旋律。 「なんだっけ」 「李香蘭だよ。知らないのか」  月の青い光がちらりと差した。水鳥の横顔は月の裏側のように見えなかった。子守唄のように。  もう秋も終わりだった。水鳥と出会ってそろそろ一年たった。ちょうど北関東の実家のちかくを通りかかった。 「そういや、うちにも本があったな」 「へ~」  朝からなぜかあまり機嫌のよくない水鳥の気を引きたかったのか、あまり立ち寄りたくなかった実家に行くつもりになった。季節の変わり目、水鳥はひどく塞ぎ込むことがあった。 「蔵があって中に本があるんだ」 「一応、いってみますか」   窓の外は日曜画家が書いた油絵のように荒っぽい秋の風景が広がっていた。  威圧するように妙に大きな武家屋敷風の門。啓輔はこれが嫌いだった。 「ほー、これはかなり。でかい屋敷だねえ。ブルジョア階級じゃん」  古びた平屋の家。屋敷、というほどではないと啓輔は思っていた。 「地主だねえ。毛沢東も地主の出だしね。エンゲルスも金持ちの家だっけ」 「地主ってほどじゃない」  実際、豪農という程度だった。それでも戦後の農地解放でほとんど農地は没収されてしまった。細々とやっていけるのは、顔役の父が農協につとめたり、兄たちが東京で勤め人になったり、公務員をしたりと農家を支える立場になっていたからだった。  既に葉が散り始めている。落ち葉を踏みしめる音。 「ああ、いいねえ、農村の秋だねえ」  機嫌が直ってきたのか。庭を物珍しげに見て回る。苔生した小さな燈籠と池。鯉が泳いでいた。昔は……この庭が全世界でもっとも面白くおもえた。  屋敷には誰もいないようだった。口うるさい母もこの時間は家庭菜園の農作業に出ている。誰もいない時間を見計らってきたのだから、当然だったが。  不意に軽い音がした。熟柿がぽたりと赤いしずくのように枯葉に落ちた。 「柿だぁ!」  水鳥が弾んだ声をあげた。 「柿の落ちる音なんてはじめて聞いたよ!」 「あとで採っていこう」  子供の頃、よく柿の木に登りとっていった。危ないと、父には止められた。庭の外れに見捨てられたような蔵がたっていた。もう飼う犬がいない、大きな犬小屋のような風情だった。 「鍵を持ってくるから」  実家を開けて鍵をとる。代わり映えのしないガランとした玄関、飴色の廊下、兄たちの部屋。高校生の時と同じ自分の部屋。和室。重く澱んだ古い空気。古い臭い。しみついた古さ。東京に行けばこうした古さから逃れられると思った。間違いだった。東京、大学こそ古い重たい空気が支配している。あの戦争、惨禍をもたらしたあの戦争を反省しないどころか、再び帝国主義国家としてアジアに暗い影を落としている。東京こそ戦前のブラックホールそのものだった。鍵は和箪笥の棚にあった。すぐに水鳥のいるところに戻る。 「じゃ、開けてみるよ」  錆び付いた大きな扉を開ける。思ったより埃っぽくはない。冷たい暗い空気。 「本はこのあたりにあったような気が……」  漆器の詰められたダンボール箱をどかすと、見覚えのある段ボール箱が数箱あった。この中に本がぎっしり詰まっていた。ろくなものはない、と父親は言っていたから、あまり期待はしていなかった。 「どれどれ」  水鳥が見分する。これと思った本を少し目を細くして一頁、一頁、真剣に捲っていく。啓輔の好きな表情だった。最後に出てきたのは日記だった。水鳥はそれにも目を通して、無言で何も言わず戻した。 「これだけかえ?」 「ああ、あとは親父が焼いちまったからな。親父の書斎には新本しかないし」  そう、ほとんどが測量や土地関係、趣味の囲碁将棋の本しかない。 「焼く?」  水鳥は怪訝な顔をした。 「ああ」 「売らないで焼くっつうことは、よほどの事があったんだろうね」  蔵の中の空気が冷たい。 「で、どう?」 「まあ、そうだねえ。あまりいいのはないね。強いて言えば、この二版の太宰か、あとはそれ、吉川英治の宮本武蔵とかかな。戦時中の兵隊向けの奴だ……その辺かね」  油紙で丁寧に包装されている。4冊の洋書だった。ロシア語の本だった。 「状態がいい」 「そうそう」  妙に口数が少なかった。 「あたしは洋書知らないからね。まあ、見てもらうよ」  ダンボールに要らない本を詰めて丁寧に戻す。最後に日記を置く。 「そうだ、忘れるところだった。柿を捥いでおくれよ!」  なんだか、古書よりも柿の方が目的のようだった。 「そろそろ、神保町に帰ろうかねえ」  水鳥は不意にそういった。 「ああ」  もうすぐ冬だからか。だいたい売り買いが終わったからか。理由はともかく、なんとなくそういった雰囲気だった。帰りに温泉旅館に寄った。二人で食べた柿は美しく赤く照り映え、今まで食べたどんな柿より甘かった。  師走は急がしかった。下宿に帰ると、水鳥が回って集めた古書を二人、神保町で売った。  このまま、水鳥と一緒に日本中回って古書を売買して、ゆくゆくは水鳥と一緒にこの町で古書店をやりたい。古書のやけた紙のにおいに包まれて。白髪になって気難しそうに店に座っている自分の姿がみえるようだった。妄想の中の水鳥は今同様若く、いやさらに若く少女のようだった。とにかく神保町こそ自分の町でここで一生暮らしていく、そんな気さえした。
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