神保町の女

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 50年ぶりの神保町。変わったような変わっていないような街だ。古書の街、古くて新しい街だ。  啓輔は途方にくれたように周囲を見渡した。  カレー屋やら新しく出来たラーメン屋が並んでいる。昔ながらの浮世絵を売っている大屋書房は未だに健在だった。  古いものを、古い時代を打ち壊して新しくできる世の中を信じた。学生が社会を変えられると信じていた。大学をあるべき姿に戻し、労働者の暮らしを守り、戦争を止める。独占資本を、帝国主義を打ち破る。世界の労働者、人民と連帯し手を携えて新しい明日を、誰も取りこぼさない未来をつくる。だが、それこそが古く過ぎ去った遠吠えのように今や響く。気がつけば、そうした理想から最も遠い世の中を私たちの世代が必死になって作り上げてしまった。私はもはや老人だった。  知性と良心の牙城とみなしていた岩波書店のブックセンターも無くなり、装いも新たにとカフェ風に生まれ変わった。時代は変わる。  ネットの中での罵詈雑言の応酬、党派意識が現実をも侵食している。学生運動は顔を合わせれば殴りあいになるかもしれないが、それなりに真剣であり、立場や思想が違っても自制や理解を示した。今はあの頃とは違い、剥き出しの対立、断絶、内輪の奇妙な所属意識、手に負えない幼稚な万能感だけがネット空間で幅を利かせている。これこそ真の革命だとインターネット、ITに期待したがそれも見込み違いだった。ある時代までは効率と利便性は自由を増進すると考えられたが、今は違う。かえって効率性と利便性が、ネットが人々を不自由にしている。たとえばふらりと古書店に入って本をと出合う自由、なんでも検索する時代になってそれはなくなった。売れる本が好きだ、金だ、と臆面もなく言っていた水鳥だが、水鳥こそ、せどりや古書展、旅をして本を買い集め売る中で本との思わぬ邂逅を楽しんでいたのかもしれない。  もう、教養はおろか紙の本が生き残るかどうかも怪しい。神保町はいつまでもこのままなのだろうか。そうであってほしい。水鳥の屈託の無い笑顔と、真剣に本を捲る横顔……それが思い出される。よく考えてみればあの一年の水鳥の思い出をずっと書棚にしまっていたような気がする。彼女自体がたしかに一篇の物語、一冊の本だったのかもしれない。    軍事関係の書物ばかり売っている古書店、文華堂の角。神保町では珍しい真新しい店が目を引いた。若者がやる小洒落たカフェのような外観。  水鳥古書店、と……啓輔は呆然とした。パラパラと雨が降る。エプロンをかけたポニーテールの少女が飛び出してくる。手際よく、古本の並んだ露天台にビニールシートをかける。その横顔は水鳥そのものだった。少女はいらっしゃいませ、というように啓輔にちょっと頭を下げた。    啓輔は、ただ相貌をみつめ続けた。
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