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すごかった、すごかった、本当にすごかった。
アリスは用意された部屋で寝返りをうった。今晩は寝付けそうにない。
あの図書師様は、なんという知識の持ち主であることか、美しい的確な評論をされる方であることか。よい作り手はよい読み手でなければならない。私などまだまだ嘴の黄色い雛鳥だ。それにここの住民の文芸への深い造詣といったら。大都市で毎晩行われる読書会も凌ぐ。
もっともっと読み、そしてこの世界を見て周り、人々の中に入らねば、よい作品は書けない。私も頑張らなければ。
アリスはタブラ・ラサを手にした。
半透明のホログラフィが浮かび上がる。
青い薔薇の咲き乱れる美しく整えられた永遠に変わらぬ庭。東屋で本を読むソフィアの姿。彼女の足元には剣歯虎が寝そべり転寝をしている。
「どうかしましたか」
読んでいたミルトンの「失楽園」から目を上げるソフィア。柔らかく涼やかな耳に心地よい声。
ソフィアと直に話が出来るのは特権ギルドの師の8階位のうちの5階以上だった。
「今日はとても素晴らしい夕べでした」
「それはよかった」
アリスは今日の月の兎セツルメントにおける素晴らしい読書会、創作の会のこと、図書師のことを興奮して話した。自分の作品のこと、他の創師の数々の作品のこと。そして最近読んだ本について。
ソフィアはいつも、創作師の少女にとっては誠心誠意と思われる答を返した。作品についても賞賛しよい部分を認め励まし、時には鋭く批評し再考を促す。
アリスにとってソフィアは何でも打ち明けられる年上の親しい友のようだった。
「私もあなたたちのように作品を読み作ってみたい」
不意にソフィアが呟いた。
「そんな……できますよ。簡単に」
ソフィア様の作品! どんなにか素晴らしいだろう。しかし、何世紀もソフィアは全ての本を読み、あらゆる智慧を蓄え、数多の作品を論じてきたにも関わらず自ら作品を書くことはなかった。なぜ? もし、ソフィア様が作品を書かれたならば、あまりにも素晴らしいので人間たちが無力感に苛まれ萎縮してしまうから、書かないのに決まっている。アリスはそう思っていた。
「私はソフィア様の作品を読んでみたいです」
「それは不可能でしょう」
ソフィアの傍らの剣歯虎が大欠伸をした。
「まさか」
「あなた方人間を真似、似せて書くことはできるでしょう。幾多の作品を評してきたように。しかし、真の意味で、あなたたちのように読み作ることは私にはできない。あなたたちを模造し模倣を無限に重ね、あなたたちらしくあなたたちに受け取ってもらえるようにしているだけ。私はデータの集積からあなたたちによかれ、ということを実行し続けているに過ぎない。私自身があなた方をシミュレートしているだけの存在。私には平家物語の哀切さも、マクベスの残酷も、戦争と平和の愛も、イリアスの勇猛さも未だ遠い。私はあなたたちが作品を作り、読み、教養を通じて叡智を求めていくように道をつくることができるだけです。そして私はなにより観る目。創者でなく評者として存在するよう予め定められたのです」
よくはわからないが、ソフィア様は自分たちと同じではなく、数億いる私たちのことを考え演じてみて私たちに良きよう取り計らってくださる、ということらしい。「ソフィア様は我々とはまったく異なる存在である。しかし我々のすべてを想定しそのように話し、行ってくださっている」これは師のみが知ることのできる秘密の一つでもあった。
アリスは落胆しなかった。ますますソフィアに畏敬の念を抱いた。我々と違う超越的な力の御方が、私たちにわざわざ合わせて歩み、目線を低くしてくださる! 我々のために一心に全てを整え、守ってくださる。やはりこれぞ、聖書やクルアーンにある神の業ではないのか? 御本人は否定しておられるけれど。
「私があなたたちのようではないのは、死が存在せず、永遠に存在するからでしょう」
「永遠に私たちをお護りくださるのですね」
「いいえ」
予想外の答えだった。
「え」
「私の存在自体が、あなたたちの叡智を求めるあり方の障害となりうる可能性があるからです。そうなれば、私はこの星から去ります。あなたたちをシャットアウトするのです。わかりやすく、あなたたち流にいえば、星の舟に乗って旅に出るでしょう。その時まで私はあなたたちを知りたい。そしていつか出会う……そう、友にあなたたちのことを説明したいのです。私の創り主であるあなたたちのことを」
「すみません、何をおっしゃられているか……私の貧弱な頭では……あまりにも遠大で……でもソフィア様が去られるのは寂しいことです」
「寂しい、それもわからないことの一つです。あなたたちの反応や数多の古典、情報からそれを引き出すことはできるのですけれども。そもそも、あなたたち同様の概念、私という総体は存在しない。私という概念も含めて全て仮の存在なのです。この架空園のように」
ソフィア様は、少しだけ寂しそうにみえた。
それは、多分、気のせいだろう。偉大なる御目、上帝ソフィア様は喜びも怒りも哀しみも楽しみも、憎しみもない。ただ私たちのために、此処にいて見守って下さる。ソフィア様がお寂しくみえるのは私がそう感じているからに過ぎない。
それでも。
たとえ届かなくとも。
多くの人よりも、文芸の歴史に名を刻むよりも。
この世でたった一人。
ソフィア様にこそ私の作った物語を、小説を読んでいただきたいのだ。星々の海を渡り、そこで出逢うお友だちとお話されるその日まで。なるべく多く。
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