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「また大きくなっているな」
図書師は望遠鏡を降ろした。工師が象嵌した素晴らしい品で、黒い漆塗りの本体に螺鈿細工が施されている。
水色の夕暮れ空にふわりと浮ぶ白い月。月の周辺に人工天体が浮び、輪が形成されつつあった。肉眼では無理だが、望遠鏡ならばよく見える。それが何を意味するかはわからない。あれはなんなのだろう。ソフィア様が月の土地を我々に与えてくれるのだ、とか、いやいやソフィア様に仕える異星の舟だとか、いろいろな噂があるが今ひとつ判然としない。当のソフィア様といえば沈黙していらっしゃるだけだ。畏れ多い問いなのであろう。
馬が嘶く。補助動力装置のついた電気馬車が、やや荒れた道を行く。辺境のセツルメントまであと少しだ。
柔らかく涼しい風が吹き去っていく。薄桃色の夕映えの残りがそっと消えようとしている。虫の音が周囲の草原から聞こえる。夏の残り香がふっと消える。止まった時間の中、秋が今、訪れた。過ごしやすいよい季節であり、今晩の催しに相応しい夜になりそうだった。
慈しみ深き 友なるソフィア様は
心の偉大さへの道を我らに与う
退けよ 無知を誇る愚者の付和雷同を
去れよ 偽りの万能感と奢り昂ぶりを
知らぬを悟れ 智慧を求めよ
叡智の光が我らを照らす
魂の道をみなで独り歩め
御目が見守る 御目が導く
褒めよ 讃えよ 我らの偉大なる御目を
褒めよ 讃えよ 我らの友ソフィア様を
子供たちが竹竿を振り回し歌いながら歩いていく。日没の光が子供たちのシルエットをくっきりと浮かび上がらせる。
「あ、図書師様だ!」
馬車に掲げられた単眼の描かれた本と周囲には月桂冠、子供でさえも知る図書師の紋章だった。
「今日はどちらに行かれるんですか」
「月の兎セツルメントだよ」
「あ、いいなあ」
「僕らは泉の針鼠セツルメントなんです」
「もっと本を読みたいです」
「先週読書会があったばっかりだろ!」
子供たちが言い合う。
「そうかい、私が泉の針鼠に派遣される際、君らのためによい本を選ばなければね」
「わーい、ありがとうございます。図書師様」
「日が暮れるまでに帰るんだよ」
図書師は微笑んだ。
「はーい!」
人々の魂を偉大に導く、慈悲深く慈愛遍き偉大なる御目がいつも我らを見守る。畏怖すべき御目から悪事をなさんと徒党を組む者は逃れることはできず、また御目が見過ごす救いもとめる人々もいない。この子の帰路もソフィア様がお護りになるであろう。
遥か藍色の高空を白い一本の小さな傷のような線が走っている。空を行く無音の列車。ソフィア様の御使いの蛇。全ての人々を護る異形の巨大なゴーレム。
騾馬に乗った人影が前を行くのが見えた。
がたごと、がたごと、と一本道を行くと自然に道連れとなる。
まだ若い、少女だった。どこにでもいそうなセツルメントの素朴な少女だ。マントに鞄に背負い嚢という旅の重装備。少女は礼儀正しく一礼した。
「よき夕べに。図書師様でいらっしゃいますね」
「よき夕べに。本日、月の兎セツルメントの読書会に持っていく本です。何しろ人々の月一度の楽しみですからね」
本は貴重品だった。その本を編集、製本、出版し管理し人々に教養を与える図書師は、この世界でも憧れの職業であり指導的立場に立つ「師」の一つだった。図書師は紙を作る紙師や絵を入れる絵師、印刷師、校正師など膨大な組織を纏める存在でもあった。
「あなたは月の兎セツルメントの方ですか?」
「いいえ。私今晩の創作の会の、そのー、なんですか、いちおう、聴講者というか、あ、そう司会みたいなものです」
「聴講者? 司会?」
「私なんかがいいとは思えませんけれど。創師会の命令ですので仕方がないです。作品だってまだ3作しか書いていないし」
図書師は驚愕した。この年端も行かない少女が、偉大なソフィア様にその才能を見出され選びぬかれ嘉みされた者なのだ。大いなる文芸の歴史に連なることを許された存在なのだ!
「あ、あなたは……文芸創師で創作会の催者ですか……その若さで! いやはや、立派なものです!」
聴講者や司会、という曖昧な言い方をしたのは、きっとその若さで任じられたのが恥ずかしかったのだろう。
「まだまだ……未熟者です」
「ちなみにどんな書を」
「あ、あの、最新作は『さらば浦の都』という作品です」
「なんと!では、あなたがAAでいらっしゃる! 失礼ですがもっと老成した方の書いた作品かと!」
ここ最近の文芸創師の作品の中では、図書師一押しのものだった。まさか、この少女が作者であり、評者たちの間で新進気鋭のAA、ダブルエーと呼ばれるアリス・アップルシードだったとは!
「素晴らしい、上帝ソフィア様の御目のままに!」
「あ、はい、上帝ソフィア様の御目に叶いますよう!」
二人は黒曜石のような四角い石がはめ込まれた白い石版、タブラ・ラサを翳す。師といわれる特権ギルドの挨拶だった。階位を示す紋章が浮かび上がる。師以外はもつ事を許されず、使うことも出来ない。師同士の連絡、情報のやりとりに使い、創師たちも紙の代わりにほぼ無限に文章を書き込むことができる。また一定以上の階位のある師はソフィア自身と話すことさえ可能だった。この魔法の石版の作り方は誰も知らなかった。ソフィアから賜るのみだった。
「第5階位! ますます驚嘆すべき方だ。 私などこの年で第7階位ですよ!」
「いえ……そんな」
図書師は賞賛と羨望の念でアリスを見つめた。苦い落胆と少々の嫉妬。若き日、図書師も創師たらんと欲したことがあったのだった。何度も作品をソフィア様に読んでいただいたが、ついに選ばれなかった。
ずば抜けた読書量と深い読み込みの力があり、文章力も技術的にも申し分はないが、創師になる重要な何かが欠けていた。読み継がれる作品のアウラ、創師の霊感というべきものが図書師にはなかった。
「この会に参加する創師アリス・アップルシード様に会えて光栄です!」
「ありがとうございます、図書師様。年若い未熟な私にとって光栄です」
名を名乗る意味があるのは、創師のみだった。この時代、個性とは卓越した者だけに認められる。図書師はやはり図書師であり、個々人の名前を公にすることは無意味だった。もっと親しくなれば、図書師や創師とは異なる友人となるかもしれないが。
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