雪の花

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 翌朝、「秀ちゃん」と呼ばれた気がして目をさました。しかし清作はそこに居なかった。母にもう挨拶にいったのだと、秀子はあわてて身支度をした。朝餉の用意を手早くし、秀子は母に粥を持っていった。 「おはようございます」  二人に声をかけたつもりであった。しかし、そこにいたのは母だけであった。 「おはよう。秀子。どうかしましたか」  清作はどこに行ったのであろう。視線をさまよわせているのに、母が気づき尋ねる。 「兄さんは、挨拶に来ていませんか」  母の眉間に深いしわが寄った。もしやすでに諍いが起きたのであろうかと思った。 「来るわけがありません」  ぴしゃりと言うのに、秀子は反論した。 「明日の朝に挨拶すると、言っていました」 「何を言っているんです。ふざけるのはやめなさい」  母の声に怒りがにじんだ。 「ふざけていません」  秀子も負けじと返した。母は、何か言おうと口を開いては、首を振って閉じる、という行為を繰り返していた。 「清作は来ません」  そうしてようやく吐き出された言葉はそれだけだった。秀子は、その様子に母も兄が心配なのだと少し嬉しくなった。 「来たんです。昨日の夜、母さんがお休みになった後に」  母の眉がぴくりと動いたのに励まされ、秀子は言葉を続けた。 「清作が」 「はい。たくさんお話ししました。もちろん、母さんにも挨拶すると言っていました」  母の顔がこわばった。秀子は、ようやく通じたと安堵したが、母のこわばりが尋常でないことに気づいた。 「追い出して」  ぽつりと母が呟いた。え、と聞き返そうとしたとき、母は狂ったように叫びだした。 「追い出しなさい! 早く追い出して!」  秀子は何を言われたかわからなかった。母は力の入らぬ体を無理に起こそうともがいた。 「母さん、やめてください!」 「追い出さなければ! 清作を早く!」  抑えようとした秀子の頬を張った。秀子が動揺している隙に、秀子を支えに、母はよろりと身を起こした。そうして、壁を支えに歩き出した。母のどこにそんな力があったのか、秀子は呆然と見ていた。 「母さん、無理をしてはだめです! それに兄さんはいません!」  秀子はとっさに叫んだ。先とは真逆の言葉だった。 「馬鹿おっしゃい」  母は止まらなかった。家の中を這うように進み、部屋を確認していく。秀子は、わけもわからぬまま母を支えることしかできずにいた。  しかし清作はどこにもいなかった。秀子の心中は安堵と不安がないまぜになっていた。 「もう逃げたのかしら。とんでもないこと。もしかくまったと言われたら」  ひゅうひゅうと危うい息をしながら、ぶつぶつと母は繰り返し、今度は玄関に向かった。秀子は母の言葉の意味を尋ねたかったが、それより先に、母は全身を使って玄関を開けた。  一面の白が広がっていた。  雪が、見渡す限り深く降り積もっていた。  秀子は母を支えながら、その光景に釘付けになっていた。母もまた、呆然としていた。  どれくらいそうしていたのか、遠くから、 「おうい、おうい」  とよぶ声で、秀子達は我に返った。体がしびれるほどに凍えていた。声の主は駐在で、声のあとを追って、その大きな体を現した。 「大変だ。奥さん。しっかりしておくれよ」  手紙を持って、広げるより先に、駐在は内容を読み上げた。  清作が獄死したとの報せであった。  秀子にはその言葉の意味がわからなかった。ただ、視界の白を見ていた。白は曇りなく、ただ駐在の足跡のみが残るばかりであった。
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