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あれから6年たった。薫子とは最後の高校一年間、リューゲンにも行かず、クラス替えのせいもあり、顔を合わせなかった。私は彼女から逃げ続けた。まさに臆病の見本だった。やはり私には小説を書く才能などはなかったようで東京の大学は、文学ではなく日本史を専攻し院に進んだ。南北朝の権力闘争が研究テーマであり、ちょっと昔の私からは考えられなかった。指導教員の老教授にえらく気に入られ、もうすぐ退任する老教授の研究を継ぐ弟子としてそれなりに期待されているようだった。研究者になるのは決定しているけれど給料が安いのでアルバイトをしなければならず、塾講師をしているが、そちらの評判は上々で人気講師になりつつあるらしく、そこそこ忙しい。私生活では恋人がいて同棲している。彼女は同じ大学の先輩で大手の広告代理店に勤めているデザイナーだった。
先日、春休みに帰郷した際、級長だった三国さんに誘われていやいや同窓会に出た。同窓会でクラスのお嬢様たちは、私を旧知の親友であるかのように迎えてくれた。あれほど余所余所しく冷笑的だった彼女たちは高校生時代がまるで嘘のように私に親しげに声をかけた。私が彼女たちに一方的に敵意をもっていただけにさえ思える歓待ぶりだった。薫子は驚いたことに男性と結婚して離婚し、一児の母のシングルマザーになっていた。あの頃の、クラスの中心、学年の女王、輝かしい生徒会長の面影はなかった。誰も彼女を気に止めなかった。影の薄いクラスメイトという扱いだった。駆け落ちに近い形で結婚し、実家からは絶縁され生活に疲れた女の顔。私のせいではないのか、そう思うと奈落に突き落とされた気がした。それでも彼女は優雅に余裕をもって微笑んでくれた。あの頃の笑顔で。私はぎこちなく会釈しただけだった。
あれほど夢中で書き、自分のすべてだと思っていた小説、『あの空の向こう側の島』は黒歴史に終わった。彼女にしてみれば罪の無い悪戯程度のことだったのかもしれない。誰にも見せない、という依怙地な私の考えを変えるために小説を発表してあげよう、くらいの軽い気持だったのかもしれない。だが、新人賞をとってしまったことで変わってしまった。私は彼女の想いよりも小説が賞をとったことを重視した。謝りたいと思った時期もあったがそれは果たせなかった。あまりにも時が立ってしまった。薫子はその後、作家になることもなかった。
そして明日から新学期という今日、買ったまま段ボール箱に詰め込んでいた、彼女が発表した私の「あの空の向こう側の島」をはじめて読んだ。基本的なストーリーやキャラクター、台詞回しこそ変わらないが、あらゆるところに手が入れられていた。そう、私が書いたものより遥かにまともな、おさまりのよいきちんとした小説に仕立てられていた。恐るべき名編集者ぶりだった。そればかりでなく、私が曖昧にしてしまったり、自身ではうまく整理がつけられずに書けなかった部分、感情や描写などがきちんと過不足なく書きあらわされ、稚拙で未熟な表現も改められていた。いい加減な世界設定は該博な歴史や科学の知識で完全に補強され最早作品の質も異なり、甘ったるい少女たちの友情ジュヴナイルからハードな歴史改変物SFになっていた。ほとんど薫子が書いたようなものだった。甘えることが許されるなら二人で書いたといえるのかもしれない。真に才能に満ちていたのは薫子だった。確かに賞に値する作家は彼女だった。
彼女の「あの空の向こう側の島」を封筒に入れて封印する。不意に涙が零れた。
恋人がいるのに、彼女のことが、鷹城薫子が忘れられない。まだ好きなのだ。
「学内誌のエッセイ読んだよ。いいじゃない。あなた、小説を書いていたのよね。また書いてみれば?」
リビングから今の恋人の声。私は声をあげて泣き出した。子供が転んだ時の泣き方のようだった。
「ど、どうしたの? 変なこと言った?」
狼狽している。
「何かあったん?」
「ううん、何でもない。昔のこと」
泣いている私を無言で抱きしめる彼女。
「小説、気が向いたら……やってみるね」
鷹城薫子は愛することを私に教えてくれた。すべてを彼女に奪われたと思ったかもしれないが、彼女から作家になる私という希望を奪ったのは私だった。私が愛した彼女を滅ぼした。卑怯にも彼女から逃亡することによって。でも、もう遅い。取り返しなどつかない。あの頃から時間がたってしまい、自分が未来に進んだからではない。私は変わらず、時間が、あの頃が容赦なく過ぎていく。私たちはみな過去に追い越されて取り残されていく。それでも前へと否応なしに進んでいかざるを得ない。あの空の向こう側の島に、たどり着くことがないと知っていても。
リューゲンは去年、取り壊され跡形も無くなってしまったという。跡地には行っていない。
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