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朝、6時。もう陽が差しはじめていた。さすがに少しだけ冷静さを取り戻した。
徹夜しちゃった。もう帰ろう。
春とはいえ、朝の冷え冷えとした空気が私を包む。もう一度だけ薫子の部屋に行ってみよう。
私は六階にあがった。オレンジ色の朝陽が階段に差し込んでいる。アカルサハホロビノスガタデアロウカ、という言葉が不意によぎる。六階の薫子の部屋に続く鉄の扉は開いていた。インターホンを鳴らす。
息が荒い。血液が逆流したようだった。いつもと変わらない風を装った薫子が顔を出した。優雅に微笑む。
「入って」
「うん」
薫子の部屋に入る。
「なぜ、あんなことを、どうして……」
「あんないい作品、公表しないのはおかしいわ」
「私が決めることよ。だって私が書いたんだもの。私のものなんだから!」
子供のように金切り声をあげた。
「なんで、こんなことをしたの?」
「あなたが好きだから。あの空の向こう側の島には、あなたの魂が籠もっているって感じたわ」
「だったらなんで」
「だからよ」
薫子は私に微笑みかける。私を魅了したあの微笑で。
「このままだったらあなたは机にしまい込んで終わり。我が友の作品が、愛する緑の作品が埋もれてしまうなんて、耐えられない。人々の目に触れさせて、この世界に出すことによって永久のモニュメントとなるわ。私たち二人のね」
「勝手なこと言わないで!薫子は薫子の名前で出したのよ!ただの盗作じゃない!私から大事なものを奪らないでよ!何でも持ってる癖に。私の唯一のものなのに!」
「いいえ、あなたには私に無い才能がある。間違いないわ。次はあの作品を超えるものを目指して。あなたならできる。今度こそはあなたの名前で発表するの。そして私を盗作した卑劣な愚か者として指弾して破滅させるといいわ」
目が潤む。恍惚を通り越して悦楽にたゆたう表情。私に元の彼女の写真を送ってきた時と同じか、それ以上。そう、セックスの時の。たいてい薫子が私を悦ばせてくれたけれど、私も拙い指遣いで何度か薫子を高みに押し上げたことがあった。あの時の表情。
「我が友、愛しい人、私は翠のすべてが花開くのをみたいの。一番近くで私だけのものにしたいの。私は残骸のように惨めになって、あなたに跪いて愛を乞うの。あなたは私を冷たく足蹴にして玩具にするといいわ」
「なんで、そんな馬鹿なことを……」
「だって愛するあなたのためですもの!あなたの才能は皆に見せたり批評されたりすると、たちまち魔法が解けてしまって萎れてしまうようなものなの? ただ逃げているだけなの? 素晴らしい作家となるあなたの運命から。あの空の向こう側の島は自己満足の楽園なの?」
自己満足じゃない。私を守るために、生きるために必要な世界だった。それを奪って壊した。飽きた玩具みたいに。頭に血が上った。薫子を拳固で殴りつけていた。今まで、どんなにいじめられてもただの一度も相手に刃向かったことはなかった。殴るなんてしたことがなかった。美しい薫子の顔を傷つけるなんて恐ろしい所業だった。後悔しても遅い。薫子の切れた唇から血が滲んでいる。それを舐める薫子。
「いい表情よ。それを作品に活かして。あなたにできないことはないわ」
朝陽の光、その底でギリシア神話のメデューサのようにウェーブがかった薫子の髪がうねっているような幻。私は恐怖した。
「愛しているわ。翠」
抱き寄せられる。血の味のするキス。悲鳴をあげて私は薫子から逃げ出した。
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