あの空の向こう側の島

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 夜10時。世間一般で言うところのキャリアウーマンの母親はまだ帰っていない。戸締りをしっかりして塾のプリントをコピーしに行く。もう一枚、解き直そうと思う。母親は小さなことでガミガミと五月蝿いが成績という魔法の護符が私を守る。  去年からこの霧谷女学院のある霧谷町に越してきた。かつて住んでいた町とは違い小奇麗な住宅街しかない。買い物はバスで行くしかないが、高速道路沿いに大きな昔風の雑居ビルが建っていた。春の夜風がやさしい。空には星がちらほらと輝いている。高い建物がないから夜空に私が呑み込まれそうに広い。  昔、お父さんと見たアメリカの映画を思い出す。たった一人、敵機を待ち受けて爆撃機の銃座で震えながら夜空を仰ぐ。あと何回出撃して生き残ればもう任務から解放される。そんなシーンが印象的だった。  二年前亡くなったお父さんは普通の家庭のように私を可愛がってくれなかったが、子ども扱いしなかった。本が好きでいつも何か読み、決して声を荒げないでレコードを聞いてコーヒーを飲んでいる人。新聞記事の難しい話をしたり、一緒にレコードでメンデルスゾーンやマーラーを聞いたり、カサブランカ、大脱走とか古い映画を見たり、司馬遼太郎だとかレイモンド・チャンドラーとか、吉川英治だとか、少し古い大人向けの小説を貸してくれて作品の感想を話し合ったりした。どんな意見にも、なるほどと頷いた後、もう少しよく考えてみるといい、と私に目線を合わせて話してくれた。小さな編集スタジオを経営している仕事の話さえしてくれた。なんだか一人前扱いをしてくれているようで誇らしかった。お父さんといると大人の世界に触れたような気がした。 「お父さんは田舎に住んでいたから子供の頃、あの空の向こう側に何があるんだろう、といつも考えていた」そう話していた。  そのお父さんは母親と離婚協議中に自動車事故で亡くなった。お父さんは、家でも勤めている大企業で厳しく部下を監督しているように、四六時中なにかミスがないか探してまわり、ヒステリックに怒鳴り続ける母親と離婚したかったはずだが、「お金の問題、マンションの権利」でなかなか離婚させなかった。親権はお父さんが持ち私を引き取ってくれるはずだったのに、置いていかれてしまった。  まるで、お父さんは母親が嫌でこの世から出て行ったみたいだった。些細な誤りを指摘し、他人を常に圧迫して威嚇し、自分が常に正しいと得意顔をする、そんな母親にこの世が似てきたと、人一倍繊細なお父さんは感じたのかもしれない。
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