ある喫茶店の話

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 聞いたことがある。  辛い時、悲しい時、そっと慰めてくれる喫茶店があると。  それが「マインド」……  惑井坂(まどいざかと読むようだ)駅で降りて西口から外に出ると、シャッターの下りた店舗の目立つ商店街が続き、そこを抜けて三叉路になっている通りの一番狭い道を行くと、薄暗い店の中から無表情なおばあさんがじっと通りを見ている誰も買いに来ないような駄菓子屋があって、そのすぐ脇にある狭い路地を入ると、黒い板に手書きの朱文字で縦書きに「マインド」と書かれた今にも外れて落ちそうな小さな看板のある陰気な喫茶店がそれだった。  わたしはその外見にちょっと怖気づきながらも、ドアを押し開けた。  ちりんとドアの上部に付いている鈴が音を立てた。  店内は狭かった。五人掛けのカウンターと二人用のテーブル席が二つ。客は一人も居なかった。音楽も流れていない。オレンジ色の照明が陰気さをさらに増しているようだ。カウンターの中に白いワイシャツに黒の蝶ネクタイをしたマスターらしき白髪の混じった年配の男の人が一人立っていて、ドアを開けたわたしに顔を向けた。 「いらっしゃい……」優しい声だ。「カウンターにどうぞ」  わたしは言われるままにカウンター席に座る。わたしはじっとマスターを見つめていた。わたしの視線に気づいたマスターはコーヒーカップを拭く手を止めた。 「で、ご注文は……」 「わたし…… 失恋したんです。昨日……」わたしはマスターを見つめながら話した。「もう少しでツヨシと結婚できたんです。でも、ツヨシに振られたんです。 他に好きな女ができたって……」 「そうですか……」マスターは抑揚のない声で答えた。「で、ご注文は……」 「この店では、辛い時、悲しい時に慰めてくれるって聞きました」 「そうですか……」 「ですから、お願いします、慰めて下さい!」わたしは頭を下げた。「もう、辛くて、悲しくて…… どうにかなってしまいそうなんです!」 「……わかりました。では、あなたに合うコーヒーをお淹れしましょう……」  マスターは言うと、背後にある棚から幾種類かコーヒー豆を選び出した。 「ツヨシは優しい人でした。あの女が現われるまでは……」わたしはマスターの動きを追うともなく目で追いながら話し始めた。「リツコって言う女です。……確かにわたしなんかよりも美人だしスタイルも良いし、何よりも良家のお嬢様だし…… わたしなんかどうやっても勝ち目は無かった」 「良くあることですよ……」マスターは手を止めることなく答えた。「そんな目に遭った男女がよく来店してくれますからね……」 「でも、ひどいじゃないですか。結婚まで約束してくれたのに」 「仕方がないんじゃないですか。そのリツコって人の方が、あなたよりも何倍もツヨシって人を幸せに出来るんですからね」 「そんな、ひどい言い方しなくても、いいじゃないですか」 「世の中って、そんなもんですよ」  言い終わるとマスターはわたしの前にカップを置いた。さっきまで文句を言っていたのが馬鹿馬鹿しくなるような、甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「失恋には良く効くブレンドですよ」マスターは言った。「それと、今のお話を伺っているうちに、もう一杯用意させてもらいました」  カップがもう一つ置かれた。そこから立ち昇る苦い香りは、ツヨシがわたしに言った冷たい声の「さよなら」と、いっしょに居たリツコの言った小馬鹿にしたような「ご苦労様」を思い出させた。 「これは……」 「どうです? 憎しみが湧く香でしょう?」 「……ええ、そうですね……」わたしは二つのカップを見比べた。「それで、どうしろって言うんですか?」 「どちらかのコーヒーをお飲みください」マスターはわたしの顔を見ながら言った。「安らぐ方か、怒りの方か……」 「両方飲んではいけませんか?」わたしはマスターに微笑みながら言った。「どっちも美味しそうだし……」 「そんな事をしたら」マスターは真顔になった。「後悔しますよ……」  マスターは言うとわたしの前から離れた。    わたしは目の前の二つのコーヒーカップを見比べていた。  甘い香りか、苦い香りか……  マスターを見ると、そっぽを向いてコーヒーカップを拭いている。  失恋を忘れさせてくれるコーヒーか、失恋を恨み続けるコーヒーか……  わたしは一方のカップに手を伸ばし、口をつけた。 「甘い方を選びましたね……」マスターはわたしに振り返って言った。「良い選択をしましたね」  わたしはうなずいた。 「これであなたは、恨みを持ってさまよう事無く、逝く事ができますね……」マスターがわたしに優しく言った。「次に産まれる時には、自殺するような悲しい人生を送らないようになさって下さいね……」  すると、わたしの目の前がすうっと薄れてきた。気が遠くなってきたような気がした。そのままわたしは明るい光の中に落ちて行った。 「……さまよう悪霊にならずに済みましたか……」マスターはほっとしたように吐息を漏らした。「冥界喫茶の役割は果たせましたかな」  死んだ者が満たされぬ思いを抱いたままでいる時、その霊は、冥界の電車に乗り、惑井坂駅で降りて、この喫茶店を訪れる。そして、これからの歩みを選択するコーヒーを飲む。どう言う選択をするかを決めるのは霊自身だ。    ドアがちりんと音を立てた。    泣き出しそうな顔をした若い男性が入って来た。 「いらっしゃい……」  マスターは男性に言った。
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