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 父親の病状は深刻だった。  ゆりが家を出た頃は一日畑に出ていることもあったのに、今はほとんど床から起き上がれない日が続いているという。 「ゆり、よく戻って来てくれたね……お前の顔を見て、あの人もどんなに安心したことか」  目に涙を浮かべた母の少しやつれた顔を見るたび、ゆりの心はずきりと痛んだ。  この家に、病気の父のもとにずっと一緒にいてやることは、ゆりにはできない。  甲斐甲斐しく父の看病をしながら、ゆりは明日こそはあの庵に帰ろうと、何度も決意を新たにするのだった。  里におりて三日が過ぎたその日は、冬の嵐が吹き荒れていた。  惣四郎と一緒に山にやってきたあの猟師が、ゆりを連れて庵まで帰ることになっていたその日の朝。  烈しい風が吹きつける中、村の男衆と猟師がゆりの家を訪れた。  病床の父と何事か話し合った後、男たちは家の窓という窓、縁側に至るまで、戸板を立て、さらに板で塞ぎ始めた。 「みんなっ……一体、何をしようとしているの?」  母親に急かされ、押し込まれるように入り口から一番遠い部屋に閉じ込められたゆりは、引き戸を叩いて懇願した。 「私は……山へ帰らなくちゃ。ねえ、開けて。ここを開けてください」  ごうごうと、吹きすさぶ風の音が家の中でも絶え間なく聞こえてくる。  突風にあおられて家が軋む家鳴りと男たちの足音にゆりの声はたちまちかき消されてしまうのだった。  二刻ほど過ぎた頃だろうか。  部屋に閉じ込められたゆりの耳に、上空から急降下するようなひときわ烈しい一陣の風の音が聞こえて来た。  異様な風音の後、一瞬の静寂を挟んだのちに、男衆は異口同音に緊迫した声を漏らした。 『……来たぞッ』 『鬼……鬼じゃっ。 本当に、鬼が出おった……!』 『なんと背の高い……恐ろしげな姿よ……』  ――キジマが、迎えに来た……?  ゆりは引き戸にぴたりと身を寄せ、聞こえてくる物音に耳を澄ませた。  どこからともなくキジマが家の前に現れたと同時に、凄まじい強風はピタリとやんでしまった。  長く伸びた髪をなびかせ、堂々と大地を踏みしめるように戸口に向かって歩いてくるキジマに対して、村の男たちは一言も発することができない。 「あんたが、ゆりの婿殿……だな」  あと数歩で家の入り口までたどり着くというところで家の影からキジマに声をかけたのは惣四郎だった。  キジマの鈍い金色に光る瞳が、惣四郎に向けられた。 「……頼む。ゆりの父御は、重い病気だ。ゆりを山へ連れて行かないでくれ。この里にいさせてやってくれ」  一言も返答を発することなく、キジマは惣四郎を一瞥すると、戸口に向かって片手を伸ばした。 「待ってくれ……。婿殿。話を聞いてくれ」  キジマの伸ばした手がピタリと宙で止まった。 「……話がしたいのは、俺の方だ」  深く静かな声音でキジマは続けた。 「ゆりに、会わせてくれ。ほんの少しの時間で済む」  再び戸口に向かって動いたキジマの腕を、家の影から飛んできた何かが掠めていった。 「……家に上げたらいかん!」  次の矢をつがえながら猟師が声を張り上げた。 「娘を攫って、逃げるつもりだ」 「鬼に人の心がわかるものか。里の娘をかどわかしおって……」  家の影から猟師と里の男衆が飛び出すと弓の心得のある者たちがキジマに向けて一斉に矢を放ち始めた。
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